第108話 勇者の成長12
勇者セレスティア・グランベル視点
頬には《鉄牙狼》の血が乾いている。視線の先には、私が倒した四体の《鉄牙狼》と、銀背の群れ主が横たわっていた。
動かない。本当に、殺した。
「……怖かった」
小さな声が漏れた。戦っている間は、考える余裕がなかった。今になって、牙が目の前へ迫った光景が何度も頭の中へ浮かぶ。
もし盾を上げるのが遅れていたら。もしローガンが銀背の脚を斬ってくれなかったら。もしオーウェンの矢が外れていたら。どれか一つでも違っていれば、私は死んでいたかもしれない。後ろにいた治療師や負傷者も。
「ええ」
ローガンが私の前へ立った。
「怖くて当然です」
「ローガンも、怖かったの?」
「もちろんです」
「まったく、そうは見えなかったわ」
「見せなかっただけです」
ローガンが膝をつき、私の左腕へ触れた。
「骨は折れておりません。ただし、強く傷めております。しばらく動かさぬように」
「分かった」
「それから、先ほどの銀背を一人で倒したとは考えないでください」
「分かってる」
「私が前脚を斬り、オーウェンが目を射抜きました」
「分かってる」
「二人がいなければ?」
「私は、あの魔物に負けていたと思う」
悔しくはなかった。事実だからだ。
「でも、二人が作ってくれたすきへ入ったのは私よ」
「そのとおりです」
「荷車も守った」
「はい」
「逃げた魔物も追わなかったわ」
「よくできました」
初めて、ローガンから素直に褒められた。うれしいはずなのに、なぜか涙が出そうになった。
「今、褒めるのはずるい」
「なぜでしょう」
「だって、今まで一度も素直に褒めてくれなかったんだもの。泣きそうになるじゃない」
「泣いても構いません」
「みんなが見てる」
「勇者は泣いてはならないのですか?」
「……そんなことないわ」
私はうつむき、右手で目元を拭った。泣いたのは、ほんの少しだけだった。周囲の兵士たちは、誰一人こちらを見ていないふりをしてくれた。
「今、見た人はいる?」
私が小さく尋ねると、最も近くにいた騎士が、傷ついた腕を押さえながら真顔で答えた。
「何も見ておりません、お嬢様」
「俺もです」
「私も、ちょうど森を警戒しておりました」
あまりにそろった返事がおかしくて、涙の残る顔のまま笑ってしまった。皆も、ほっとしたように笑った。
「勇者様」
オーウェンが、二人の兵士を連れてきた。肩を借りている者は脚を負傷し、もう一人も鎧のあちこちが裂けていた。
それでも、二人とも生きている。
「ダンとミハイルです」
「無事で……よかった」
「勇者様たちが来てくださらなければ、戻れませんでした」
ダンと呼ばれた兵士が、頭を下げようとする。
「動かないで」
慌てて止めた。
「二人が群れを引きつけてくれたから、四人も生きていたの。誰か一人のおかげじゃない」
「それでも、ありがとうございます」
今度は、止めなかった。ありがとうと言われたことを、自分だけの手柄だと思わなければいい。私も頭を下げた。
「みんなで、砦へ帰ろう」
◇
城へ戻ったのは、日が沈んでからだった。第三砦で応急処置を受けた左腕は、布で固定されている。頬と髪についた血は洗い流したが、服のすき間へ入り込んだ森と血の臭いが、まだ残っているように感じる。
城門が見えた瞬間、お父様とお母様の姿を探した。二人とも、門の前で待っていた。その後ろには、ミレイユや城の使用人、訓練場にいた騎士たちまで集まっている。
夕闇の中、ほどいた青髪が馬の背へ長く流れていた。血を洗い落とした白い顔には疲れが残り、左腕も固定されている。それでも私が無事に戻ってきたと分かると、こわばっていた皆の表情が一斉にほどけた。
「お帰りなさいませ、お嬢様!」
城門を守る兵士が、声を震わせて迎えてくれた。その声へ応えるように、あちこちから「お帰りなさい」と重なった。
「ただいま。みんなも一緒に帰ってきたわ」
私ではなく、後ろの荷車を示す。待っていた者たちはすぐに道を開け、負傷者を搬送するために走り出した。私が何を守るために出たのかを、皆が分かってくれている。
馬から下りると、お母様がこちらへ歩いてくる。最初に顔を見て、次に固定された左腕、革の鎧についた傷へと視線を動かす。そして何も言わず、私を抱き締めた。
「ただいま戻りました」
「お帰りなさい」
声がわずかに震えている。
「約束どおり、帰ってきました」
「ええ」
お父様も傍へ来た。私の頭へ手を置こうとして、一度止める。子ども扱いしない方がよいと思ったのかもしれない。私は自分から、その手の下へ頭を入れた。
「なでてもよいです」
「そうかい?」
「今日だけです」
「それは残念だ」
大きな手が、青い髪を優しくなでる。城へ戻ってきたのだと、ようやく実感した。
その後、執務室でお父様とお母様へ正式な報告を行った。
巡回隊六名は全員生還。このほか、捜索隊と第二陣では七名が負傷したが、巡回隊を含め、命に関わる者はいない。
《鉄牙狼》十八体と、銀背の群れ主一体を退治。森の街道へまかれていた《魔誘香》の欠片も回収した。その表面には、帝国東部で使われる工房印とよく似た刻印があった。
「帝国軍が行ったと考えてよいのでしょうか」
「可能性は高い」
お父様が答えた。
「だが、印だけでは証拠にならない。帝国の品を手に入れ、王国側の者が使った可能性もある」
「誰が、そのようなことを?」
「国境で争いが起きれば得をする者は、帝国軍だけではない。武器を売る商人も、対立をあおって立場を強くしたい貴族もいる」
思っていたより、ずっと複雑だった。目の前に帝国兵がいれば、敵だと分かる。けれど、残された炭と印だけでは、誰が何のために行ったのか決められない。
「では、何もできないのですか?」
「いいや。できることをする」
お父様が地図へ目を向けた。
「国境の巡回を増やす。《魔誘香》がどこから運ばれてきたのか調べ、北の岩山で何が起きているのかも確かめる。帝国側へも、正式な経路を通じて調査を求める」
「認めるでしょうか」
「認めなくても、こちらが知っていると伝える意味はある」
戦うことだけが、領地を守る方法ではない。報告し、調べ、相手へ知らせる。今日の私が、魔物を追わず負傷者を搬送したことと、少し似ているように思えた。
「セレス」
お父様に呼ばれる。
「はい」
「今日、自分が何をしたと思う?」
「四体の《鉄牙狼》と、銀背の群れ主を倒しました」
「それだけかい?」
「荷車と治療師を守りました」
「ほかには?」
「周囲の魔物の位置を伝えました。負傷者を搬送し、最後には追撃を止めました」
「一番難しかったのは?」
少し考えた。銀背へ剣を振るったこと。最初の《鉄牙狼》を殺したこと。負傷者を搬送したこと。どれも難しかった。
「二人を探しに行かなかったことです」
正直に答えた。
「助けを求めていると分かっていたのに、荷車の傍に残りました」
「後悔している?」
「いいえ」
今なら分かる。私まで捜索へ加わっていれば、荷車の下から入り込んだ《鉄牙狼》を止める者が一人減っていた。治療師が襲われ、重傷者の治療ができなくなっていたかもしれない。
「オーウェンたちを信じて、自分の役目を守り、荷車の傍に残りました。苦しかったですが、間違っていなかったと思います」
「私も、そう思う」
お父様がほほ笑んだ。
「今日の働きをもって、すぐ国境へ出してもらえるとは考えていないね?」
「はい」
「少しは期待していた顔だ」
「だって、少しくらいは期待するでしょう?」
「ずいぶんと正直だね」
「お父様が顔に出ているとおっしゃったのです」
「今のお前は、守られるだけの子どもではない。だが、一人で戦場へ立てるほどでもない」
「分かっています」
「ならば、これからも人と一緒に戦うことを学びなさい」
「ローガンたちとですか?」
「それもある」
お父様が、机の端に置かれていた一通の手紙を手に取った。封に押された印を見て、胸が大きく跳ねる。
アークハルト男爵家の紋章。




