第107話 勇者の成長11
勇者セレスティア・グランベル視点
振り返らず、地面へ滑り込むように身体を沈めた。つめが結び目をかすめ、青い髪がほどける。長い髪が背中へ広がった。
身体を起こしながら、指先を狼の目へ向ける。
「《火花》!」
赤い火の粉が弾けた。視界を奪われた《鉄牙狼》が闇雲に前脚を振るう。その内側へ入り、前脚を斬り払った。崩れた胸元へ、剣を真っ直ぐ突き入れる。
三体目。
「お、お嬢様……」
駆けつけた騎士が、わずかに息をのんでいる。ほどけた青髪が風に舞い、火と光の魔法を映してきらめいていた。白い頬には血が散り、きれいなどと言える姿ではないはずだ。それでも、騎士の目におびえはなかった。
むしろ、私の姿を見て、自分もまだ戦えると信じたように剣を握り直した。
「見とれている場合じゃないわよ!」
「は、はい!」
朝と同じ言葉に、こんな場所で笑いそうになる。
「後ろの車輪!」
一体が車軸へかみつこうとしている。負傷者を乗せた荷車を壊すつもりだ。
私が向かうより早く、若い騎士が剣を振るった。その背後へ、別の《鉄牙狼》が迫る。
「伏せて!」
「《雷矢》!」
右手を向けて放った細い雷が、若い騎士の頭上を通り過ぎ、魔物の胸へ突き刺さった。灰色の毛の間を青白い光が走り、《鉄牙狼》が地面へ転がる。
完全には倒れていない。しびれた脚で起き上がろうとしている。私は荷車の横木を踏み台にして跳び、その首へ剣を振り下ろした。
四体目。
「ありがとうございます!」
「前を見て。次が来るわ!」
返事をする余裕もない。群れの数は、少しずつ減っている。
こちらにも、盾を持つ腕をかまれた者や、つめで脚を裂かれた者がいた。それでも円陣は崩れていない。兵士たちは私の声に応え、盾を寄せ、剣を振るった。
「右は任せてください、お嬢様!」
「治療師の前へ一体も通すな!」
勇者だから守られているのではない。私も彼らを守り、彼らも私を守っている。初めて、同じ仲間の列へ並べたのだと思った。
「グルルルル……」
それまでとは違う、低いうなり声が響いた。残っていた《鉄牙狼》が道を空け、木々の間から大きな影が姿を現す。
背の毛だけが、銀色に輝いている。
通常の《鉄牙狼》より、さらに二回り大きい。頭の高さは私の胸を超え、口から伸びた二本の牙は短剣ほどもあった。
「群れの主です!」
誰かが叫ぶ。
銀背の《鉄牙狼》は、私たちへすぐ襲いかからなかった。倒れた仲間、盾を並べる騎士、中央の荷車。一つずつ確かめるように黄色い瞳を動かし、そして私を見た。
目が合った。
あれは、私が最も弱いと判断したのではない。先ほどから魔法を使い、周囲へ声をかけている者を見つけたのだ。群れを率いるものとして、こちらの中心を潰そうとしている。
「セレスティア様。下がってください」
騎士二人が、私の前へ出る。銀背が地面を蹴った。
速い。
二人の盾へ、巨体が正面からぶつかる。木の盾が砕け、騎士たちの身体が左右へ弾き飛ばされた。
「くっ!」
私は剣を構えた。銀背は止まらない。真っ直ぐ、こちらへ向かってくる。
逃げれば、荷車へ届く。受け止める。小盾を正面へ出す。
「駄目です!」
ローガンの声が聞こえた。分かっている。私の身体と盾では、あの巨体を止められない。それでも、横へ避けることはできない。
衝突の寸前、胸の奥へ青白い熱が生まれた。訓練場で、右脚へ集めた力。今度は、盾を支える左腕だけへ流す。
「止まって!」
青白い光が、小盾と左腕を包んだ。銀背の頭が盾へ激突し、耳の奥で大きな音が鳴った。地面から足が離れ、身体が後ろへ飛ばされる。
「セレスティア様!」
背中が荷車へぶつかり、息が止まる。左腕の感覚がない。盾には、二本の牙が深く食い込んでいた。
止められなかった。けれど、銀背も一度足を止めている。その横腹へ、矢が突き刺さった。
「うちのお嬢様へ、何をしてくれやがる!」
オーウェンの声だ。上流へ向かった六人が、森から戻ってきている。その後ろには二人の兵士がいて、一人がもう一人に肩を貸していた。
「二人とも……」
生きていた。
安心した瞬間、銀背がこちらへ顔を向ける。オーウェンの矢が刺さっても、倒れない。怒りに満ちた黄色い目が、再び私を捉えた。
「セレスティア様、動けますか!」
「動ける!」
実際には、左腕がほとんど上がらず、背中も痛い。けれど、脚は動く。
「全員、円陣へ戻れ! 群れの主を囲む!」
ローガンが銀背の前へ立った。その手にあるのは、訓練で見慣れた木剣ではない。ローガンが本物の剣を振るう姿を、私は初めて見た。
銀背が跳ぶ。ローガンの姿が消え、次に見えた時には、銀背の右前脚から血が噴き出していた。
「速い……」
訓練でさえ、見たことのない動きだった。銀背の前脚が崩れる。それでも倒れず、残る三本の脚で身体を支え、ローガンへ牙を振るう。
ローガンは一歩だけ退き、避けた。
その一歩は、今朝、私が動かした半歩とは比べものにならない。相手の力も、速さも、次の動きも、すべて分かったうえで必要なだけ下がっている。
「今よ!」
オーウェンの矢が銀背の左目へ刺さり、魔物が大きく頭を振る。視界が塞がれ、体勢が崩れた。
ローガンが作ったすき。オーウェンが広げたすき。私は地面を蹴った。
「セレスティア様!」
止める声ではない。行けという声だった。
右脚へ、《闘気》を集める。今朝より強い青白い光が、足元を包んだ。
一歩。
銀背の懐へ入る。狙うのは、硬い毛に守られた背ではない。前脚を斬られ、身体を支えるために開いた胸元だ。剣へ、光を集める。
「《光刃》!」
白い光が刃を覆った。ほどけた青髪が光と風の中へ大きく広がり、白い頬についた血さえ、鮮やかな戦化粧のように見えた。
かわいらしい辺境伯令嬢でも、祭壇で選ばれただけの勇者でもない。この時だけは、自分でも分かる。私は、グランベルの兵士たちと共に戦う一人の剣士だった。
痛みで上がらない左腕を、歯を食いしばって持ち上げ、左手を剣の柄へ添えた。左腕が悲鳴を上げる。それでも、右手だけでは深く斬り込めない。
「はあああっ!」
下から、全力で斬り上げた。光をまとった刃が、銀色の毛のない胸元へ入る。肉を断ち、骨へ当たった。
重い。止まりそうになる。
さらに一歩、踏み込んだ。青白い闘気が右脚から腰へ、腰から両腕へ流れ、剣が振り抜かれた。
銀背の巨体が私の横を通り過ぎ、地面へ倒れる。土が大きく舞った。
私は剣を構えたまま、動かなかった。銀背の脚が一度だけけいれんし、それきり動かなくなった。森へ静けさが戻る。
「お嬢様が、やった……」
誰かのつぶやきに続き、歓声が上がりかけた。けれど、まだ終わっていない。残っていた《鉄牙狼》が、群れの主の死を悟った。一体、また一体と、木々の間へ逃げ始める。
「追撃しますか!」
若い騎士が尋ねた。胸の奥が熱い。今なら追える。群れは崩れている。逃げる魔物を倒せば、再び誰かを襲うこともない。
けれど、地面には負傷した騎士がいる。荷車にも重傷者がいて、探していた二人は戻ったばかりだ。私たちの役目は、敵をすべて倒すことではない。
「追わないで!」
ローガンより先に、声が出た。全員が私を見る。一瞬、自分が命令してよかったのか不安になった。ローガンと目が合うと、わずかにうなずいた。
「追いかける必要はない! 負傷者を荷車へ乗せ、砦へ戻る!」
正式な命令が響き、騎士たちが動き始めた。
私は剣を下ろした。途端に全身から力が抜け、膝が地面へついた。
「セレスティア様!」
「大丈夫よ」
立とうとするが、脚に力が入らない。右手を見ると、剣を握ったまま激しく震えていた。
左腕は、盾を外すことさえできない。




