第106話 勇者の成長10
勇者セレスティア・グランベル視点
「進みます」
ローガンの合図で、隊列が再び動き出した。先ほどまでより、歩みは遅い。
誰も話さない。荷車の車輪が小石を踏む音だけが、森へ響いていた。
やがて沢の音が近くなり、木々の向こうから焦げた臭いがした。
「味方です!」
先頭の騎士が叫ぶ。
古い見張り小屋の前に、十数人の騎士がいた。先に出た捜索隊だ。
中央では、発見された四人の兵士が手当てを受けていた。重傷の二人は地面へ横たえられ、残る二人も傷を負っている。
「オーウェン隊長……」
右脚へ布を巻き、見張り小屋の壁へもたれて座っていた一人が顔を上げた。
「遅くなった」
オーウェンが駆け寄る。
「ほかの者は?」
「ダンとミハイルが、群れを引きつけました。俺たちを小屋へ逃がすために……」
「どちらへ向かった?」
「沢の上流です」
「何体だ?」
「分かりません。少なくとも、二十はいました。それに……銀色の大きな奴が一体」
《鉄牙狼》は、普通なら灰色の毛を持つ。長く生き、群れの主となった個体は背の毛が銀色へ変わるという。身体も牙も通常の個体より大きく、単体でCランクに相当する。
その個体が率いる二十体の群れなら、全体でBランクに近い脅威だ。
「二人が群れを引きつけてから、どのくらい経った?」
「一刻ほどです」
誰も言葉を発しなかった。
一刻。たった二人で、群れから逃げ続けられる時間ではない。
「ローガン様」
オーウェンが振り返る。
「捜索をお許しください」
「五名を連れて上流へ向かえ。半刻で戻れ。跡が見つからなくても、それ以上は進むな」
「承知しました」
オーウェンが五人を選ぶ。
私も、と言いそうになり、剣の柄を握る手へ力が入った。けれど、口にはしなかった。私の役目は、ここにある。
「負傷者を荷車へ! 歩ける者も無理をさせるな!」
ローガンの命令に従い、治療師たちが動き出す。私は最も大きな傷を負った兵士の傍へ膝をついた。
肩から胸へ、つめで切られた深い跡が走っている。血は止められているものの、顔色が悪い。
「聞こえる?」
閉じていたまぶたが、わずかに開く。
「……勇者、様?」
「話さなくていいわ。今から砦へ戻るから」
「ダンたちは……」
「捜索に向かったの」
「助けて、ください」
弱い声だった。私は、その手を握った。
「必ず助ける」
自分へ言い聞かせるように答えた。治療師の指示を受け、兵士の身体の下へ布を通す。身体強化を使い、もう一人の騎士と一緒に担架へ移した。
「セレスティア様。頭側を、もう少し上げてください」
「はい」
「揺らさぬよう、ゆっくりです」
力があるからといって、速く持ち上げればよいわけではない。傷の位置、呼吸、本人の痛み。すべてを見ながら動かす。
アレス君の報告書には、負傷者を背負い、全員で逃げる方法が書かれていた。その言葉を読んだ時は、正しいと思っただけだった。実際に傷ついた人を持ち上げると、腕にかかる重さとは別のものを感じた。
落とせない。揺らして傷を広げることもできない。
一人の命を運ぶというのは、こんなにも重い。
重傷の二人を荷車へ乗せ終え、自力で歩ける二人も荷台の端へ座らせる。
「出発の準備を――」
ローガンが言いかけた時だった。
森の奥から、鳥の群れが一斉に飛び立った。いなかったはずの鳥たちが、上流のさらに向こうから空へ逃げていく。
次いで、低いうなり声が聞こえた。一つではない。いくつもの声が重なり、森の空気を震わせる。
「来るぞ!」
騎士たちが円陣を組み、荷車二台を中央へ寄せて外側へ盾を向ける。
「セレスティア様は、治療師と負傷者の傍へ!」
「分かった!」
私は命じられた場所へ走った。逃げていない。前へ出たい気持ちを抑え、守るべき場所へ動いているのだと、自分へ言い聞かせる。
木々の間に、黄色い瞳が浮かんだ。
一つ。二つ。三つ。
数え切れない。
灰色の狼が、音もなく姿を現す。
普通の狼より二回り大きい。口から突き出した牙は鈍い銀色に光り、前脚のつめが土へ深く食い込んでいる。
「弓、構え!」
ローガンの声が飛ぶ。
弓兵たちが、一斉に矢をつがえた。
《鉄牙狼》はすぐには襲ってこず、円陣の周囲を歩きながら弱い場所を探している。群れで狩る魔物だ。目の前の盾だけを見てはいけない。
私は背後を振り返った。
荷車の下。車輪の陰。頭上の枝。
「右の荷車の下!」
叫ぶ。
黒い影が、地面をはうように飛び出した。騎士たちの視線が外へ向いている間に、沢側の斜面から回り込んでいた一体だ。
治療師へ牙をむく。私は間へ入り、小盾で硬い牙を受け止めた。
「くっ!」
衝撃で左腕がしびれた。身体強化を使っても、押し返せない。
魔物の臭い。熱い息。目の前でかみ合う牙。
訓練とは違う。本当に、私を殺そうとしている。
怖い。脚が後ろへ下がりそうになる。
「セレスティア様!」
誰かが呼ぶ。
逃げれば、後ろにいる治療師がかまれる。
盾を持つ左腕を下へ落とした。牙が盾へ食い込んだまま、《鉄牙狼》の頭が引き下げられる。首筋が見えた。
右手の剣を抜く。初めて、人でも訓練用の的でもない、生きたものへ刃を向ける。
一瞬、腕が止まった。《鉄牙狼》の前脚が動く。迷えば、こちらが裂かれる。
「はあっ!」
剣を振り下ろした。
刃が首へ入り、硬い毛と肉を断つ感触が手へ伝わった。温かい血が頬へ飛び、《鉄牙狼》の身体が大きくけいれんして地面へ倒れる。
死んだ。
私が、殺した。
「次が来ます!」
治療師の声で我に返る。左から、もう一体が跳びかかっていた。止まっている時間はない。剣を引き抜き、小盾を構える。
「《光弾》!」
手のひらの前へ小さな白い光を生み出し、魔物の目の前で弾けさせる。《鉄牙狼》がひるみ、空中で身体を捻った。そのわき腹へ、騎士の槍が突き刺さる。
「助かった!」
「こちらこそ!」
一人で戦っているのではない。私が止め、騎士が倒す。騎士が防ぎ、私がすきを作る。
「放て!」
弓のつるの音が重なった。
円陣へ近づいた《鉄牙狼》へ、矢が降り注ぐ。
数体が倒れる。
残る魔物が一斉に走り出した。
正面から来るもの。
木を蹴り、盾の上を越えようとするもの。
仲間の死体を踏み台にするもの。
「盾を上げろ! すき間を作るな!」
騎士たちが攻撃を受け止める。木と鉄がきしむ音。魔物の牙。人の叫び。血の臭い。すべてが一度に押し寄せた。
けれど、先ほどまでのように足がすくむことはなかった。一体目を斬った感触も、頬についた血の温かさも消えてはいない。それでも、守るべき人が後ろにいる限り、立ち止まってはいられない。
訓練場では、五人の騎士を同時に相手にしてきた。《鉄牙狼》は人より速く、牙もつめも本物だ。けれど、騎士のように仲間の剣を隠すことも、こちらの癖を読んで攻め方を変えることもない。
怖くても、見える。
私は荷車の周囲を走った。
「《風盾》!」
頭上へ風の壁を作る。枝から飛びかかった一体の身体が横へ流れ、盾列の外へ落ちた。待ち構えていた騎士が槍で地面へ縫い止める。
「左、二体来る!」
「三番、四番、左へ!」
ローガンが、私の声を聞いて指示を変える。二人の騎士が動くより、狼の方がわずかに速い。私は左足へ風を集めた。
「《風駆》!」
一歩で、二体の間へ入る。
右から来た牙を小盾で外へ弾き、その勢いのまま盾の縁をあごへたたき込む。頭が跳ね上がったところへ、剣を下から斬り上げた。
二体目。
背後からつめが迫る。




