第105話 勇者の成長9
勇者セレスティア・グランベル視点
城を出て二時間ほど進むと、街道の景色が変わり始めた。
領都の近くでは、道の両側に畑が広がっている。行き交う荷馬車も多く、私たちの姿を見つけた子供たちが手を振っていた。
「勇者様!」
「セレスティア様、頑張って!」
風に揺れる青い髪は、遠くからでもよく目立つ。私が手を振り返すと、道端の子供たちは跳び上がって喜び、畑仕事をしていた大人たちも帽子を取って頭を下げた。
その眼差しは、勇者に選ばれてから向けられるようになった、恐れを含むものとは少し違っていた。領内を訪れるたびに言葉を交わし、剣の稽古を見せ、収穫祭では一緒に菓子を食べてきた人たちの目だ。
皆が見ているのは、遠い物語の勇者だけではない。グランベル家の娘である私を、心配しながら送り出してくれている。
「お嬢様が笑うと、見送りの声が倍になりますな」
隣を進むオーウェンが言った。
「オーウェンも笑えばいいじゃない」
「俺の顔では、子供が泣きます」
「そんなことないわ。赤ちゃんには、たまに泣かれるけれど」
「お嬢様、それは慰めになっておりません」
周りを進む騎士たちが笑う。出発した時から隊列を包んでいた張り詰めた空気が、ほんの少しだけ柔らかくなった。
東へ進むにつれ、畑は少なくなった。代わりに土塁と見張り台が増え、畑仕事をする領民のそばにも槍を持った兵士が立っている。街道と交差する細い道には、帝国兵が入り込んだ時に進路を塞ぐための丸太が積まれていた。
同じグランベル領だ。けれど、領都とは違う。ここで暮らす人たちは、国境のすぐそばに帝国があることを、毎日の生活の中で感じている。
「あちらが第三砦です」
先頭を進むローガンが、木々の向こうを示した。
高い石壁と、四つの見張り塔が見える。
城と比べれば小さい。それでも、帝国へ続く街道を塞ぐように建てられた砦は、遠くからでも近寄りがたい重圧を放っていた。
砦の門前には、負傷者を受け入れるための兵士が集まっている。
けれど、先に出た捜索隊はまだ戻っていないらしい。
荷車を中庭に入れると、砦を預かる隊長が駆け寄ってきた。
中庭にいた兵士たちが、作業の手を止めて一斉に敬礼する。その中には、幼いころに私に木彫りの笛をくれた者も、剣を持ち始めた私に足運びを教えてくれた者もいた。
皆の顔に驚きが浮かんでいる。城で守られていた小さな令嬢が、革の鎧と真剣を身につけ、救援隊の一員として砦まで来たからだ。
「作業を続けて」
声をかけると、兵士たちは動き始めた。それでも、すれ違うたびに向けられる視線には、心配とうれしさと、隠し切れない誇らしさが混じっていた。
「ローガン様。お待ちしておりました」
「状況は?」
「第一陣から伝令が一人戻りました。巡回隊のうち四名を発見し、二名は自力で歩けますが、残る二名は重傷とのことです。伝令が砦へ着く直前には、現地から《火矢》の合図も上がりました」
「生きているのね」
思わず口を挟んだ。
隊長が私に向き直り、深く頭を下げる。
「はっ。四名とも、生存しております」
「残る二名は?」
「まだ見つかっておりません」
安心しかけた胸が、再び締めつけられた。
「第一陣は、発見した四人を連れて戻っているの?」
「その予定です。しかし、合図から時間が経っております」
「魔物の足跡は?」
ローガンが尋ねる。
「《鉄牙狼》が少なくとも十五。さらに大きな足跡が一つ確認されております」
「群れの主?」
「おそらくは」
地図が、荷車の上に広げられた。
巡回隊が見つかったのは、砦から森へ入って一時間ほどの場所だった。小さな沢と、使われなくなった見張り小屋がある。
「第二陣は予定どおり進む」
ローガンが告げた。
「先に向かった者たちと合流し、負傷者を荷車に乗せる。残る二名を探すかどうかは、その時点で判断する」
「承知しました」
騎士たちが、荷車の車輪と馬具を確認する。
私は馬から下り、水袋に手を伸ばした。
飲もうとしたところで、手がわずかに震えていることに気づく。
まだ戦ってもいない。魔物の姿さえ見ていない。それでも、二人が見つかっていないという言葉が、頭から離れなかった。
「飲まないのですか?」
ローガンに問われる。
「飲むわ。少し考えていただけ」
「一度に多く飲まず、口を湿らせる程度にしてください」
「分かってる」
一口だけ水を含む。冷たい水が喉を通り、少しだけ呼吸が落ち着いた。
「ローガン」
「何でしょう」
「森へ入った後も、私の役目は荷車の護衛ね」
「はい」
「二人が見つかっていなくても?」
「はい」
迷いのない答えだった。
「捜索は、森に慣れた者が行います。セレスティア様が勝手に動けば、探さなければならない者が二人から三人へ増えます」
「分かってる。もう、何度も言わなくても大丈夫よ」
「本当に?」
お父様と同じことを聞かれた。
「行きたいとは思ってる」
「それは当然でしょう」
「でも、行かないわ」
「よろしい」
ローガンが小さくうなずいた。
「恐怖も、助けたいという気持ちも、消す必要はございません。消そうとすれば、自分が何を感じているのか分からなくなります」
「じゃあ、どうすればいいの?」
「抱えたまま、命令に従ってください」
「そうね。怖いまま、助けに行きたいまま、それでも命令に従うのね」
「はい」
「やっぱり難しいことを、簡単に言うのね」
「簡単であれば、訓練する必要はございません」
やはりローガンは厳しい。けれど、その言葉は不思議と胸へ残った。怖くてもいい。助けに行きたくてもいい。感じたことと、実際に何を選ぶかは別なのだ。
「出発するぞ!」
ローガンの声が響く。
私は水袋を戻し、再び馬に乗った。
◇
国境の森へ入ると、昼間だというのに周囲が薄暗くなった。
太い枝が頭上を覆い、陽の光を細かく遮っている。湿った土と、枯れ葉の匂い。遠くから流れる沢の音。
それ以外の音が、ほとんど聞こえない。
「鳥がいない」
小さくつぶやく。
「気づかれましたか」
隣を進んでいたオーウェンが答えた。
「砦を出た時は、鳴き声が聞こえてた」
「この辺りから、一羽もおりませんな」
鳥だけではない。小動物が草むらを動く音も、虫の声もない。森全体が、何かを恐れて息を潜めているようだった。
「《鉄牙狼》の群れが近いのかしら」
「それだけなら、木の上の鳥まで消えることは滅多にございません」
オーウェンが馬を止め、街道の端を見つめた。
「止まれ」
ローガンが片手を上げた。
隊列が止まる。オーウェンは馬から下り、街道の端へしゃがみ込んで土をすくった。匂いを確かめた後、近くに落ちていた黒いかけらを拾い上げる。
「何?」
「炭です」
「森で火をたいた跡かしら」
「普通の炭ではございません」
オーウェンが、私たちから少し離れた場所へかけらを置いた。
水筒の水を数滴垂らす。
甘い匂いが広がった。花の蜜に似ている。けれど、その奥に血と腐った肉を混ぜたような臭いがあった。
「《魔誘香》だ」
ローガンの声が低くなる。
「魔物を集めるための香?」
「はい。狩人が、ごく少量を罠に用いることはございます。しかし、国境の森で使うことは厳しく禁じられております」
「誰かが、《鉄牙狼》をここへ呼んだ……」
「まだ断定はできません」
そう言いながらも、オーウェンの顔から笑みは消えている。かけらの表面には細い線が刻まれており、文字のようにも、何かの印のようにも見えた。
「帝国のもの?」
「似た製法は、国境の向こうで使われております」
オーウェンが布に包み、腰の袋に入れた。
「持ち帰って調べます」
「周辺を警戒しろ」
ローガンの命令が飛ぶ。
騎士たちが荷車を囲む間隔を狭めた。
私は馬から下り、荷車の左側へ立つ。
馬に乗ったままでは、木々の間から飛び出してくる魔物に対応しにくい。右手を剣の柄に置き、左腕の小盾を確かめる。
甘い臭いは、一か所からだけではなかった。街道に沿って、砕いた《魔誘香》がまかれている。
魔物が偶然この森へ下りてきたのではない。何者かが、ここへ呼び集めているのだ。




