第103話 勇者の成長7
勇者セレスティア・グランベル視点
「では、アレス様の報告書を一枚にまとめられては?」
「一枚に?」
「必要な部分を書き写せば、場所を取らずに済みます」
「駄目。どんな言葉で評価されたのかも大切だもの」
「さようでございますか」
「セレスティア」
開いた扉から、お母様の声がした。
振り返ると、お母様――ローズ・グランベル――が部屋の中を見回している。社交界で王国屈指の美女と呼ばれたお母様と私は、よく似ていると言われる。けれど今、お母様の整った顔に浮かんでいたのは、娘の部屋を見た母親らしい、あきれ半分の笑みだった。
壁へ並ぶ五枚の報告書。机の上に積まれた、アレス君について書かれた過去の手紙。その隣には、いつか訓練試合をした時に何を確かめるか、私が書いた一覧まで置いてある。
「また増えたのですか?」
「はい。《黒鎧虎》を一人で倒したそうです」
「まだ一度も会ったことのない男の子の記録で、部屋の壁が埋まりそうですね」
「好敵手の成長を知ることは大切です」
「相手は、あなたが好敵手と見ていることを知っているのですか?」
答えられなかった。
アレス君へ、直接手紙を送ったことはない。初めは、会ったらすぐ訓練試合を申し込むつもりだった。けれど、リシアから「百一回も戦うつもりなら、その前にまずご挨拶をしてください」と注意された。
お母様にも、王家や辺境伯家の者が送る手紙は、相手に返事を強いることになりかねないと教えられた。
何より、アレス君が何かを急いでいることは、報告を読むたびに分かる。会ったこともない私の挑戦に付き合わせ、訓練の時間を奪ってよいのか。そう考えると、書きかけた手紙を送れなかった。
「……まだ、知りません」
「でしたら、壁がすべて埋まる前に一度ご挨拶できるとよいですね」
「お母様。その言い方では、私がアレス君へ夢中になっているように聞こえます」
「違うのですか?」
「好敵手としてです!」
「私は、何も申していませんよ」
お母様が楽しそうにほほ笑む。
ミレイユは、聞こえなかったような顔で新しい手紙のしわを伸ばしていた。
「もう、お母様までからかわないでください」
「からかってなどいません。少し可愛らしいと思っただけです」
「それを、からかっていると言うのです」
「お父様がお呼びなのでしょう?」
「はい。ですが、その前にお母様が来られたのは、なぜですか?」
お母様の笑みが消えた。
「国境で、問題が起きました」
部屋の空気が変わった。
「帝国ですか?」
「まだ、分かりません」
「負傷者はいるのですか?」
「詳しい話は、執務室で聞きなさい」
私は五枚目の手紙を机へ置いた。
先ほどまで、報告書をどうやって壁へ貼るかしか考えていなかった。今は、その置き場所など考えていられない。
国境。
負傷者。
鑑定の儀式の直後、血に染まって戻ったオーウェンたちの姿を思い出す。
「行きます」
◇
執務室には、お父様とローガンのほか、国境守備隊の副官と数人の騎士が集まっていた。
机の上には、東部国境の地図が広げられている。
「遅くなりました」
「いや。呼んだばかりだよ」
お父様の表情はおだやかだった。
けれど、目だけは地図から離れない。
「何があったのですか?」
「東の森へ入った巡回隊が、予定の時刻を過ぎても戻っていない」
お父様が、地図の一点を指した。
グランベル領と帝国領の間には、国境線に沿って深い森が広がっている。互いの砦から斥候が入り、敵兵の動きや不審な足跡がないかを確かめる場所だ。
「何人ですか?」
「六人だ。夜明け前に第三砦を出て、昼までに戻る予定だった」
今は、すでに昼を大きく過ぎている。
「捜索隊は出たのですか?」
「第一陣はすでに向かっている。先ほど、森の手前で、巡回隊が使っていた伝書筒と折れた矢を発見したとの報告が届いた」
「血はあったのですか?」
「わずかに」
胸の奥が冷たくなる。
「帝国兵に襲われたのですか?」
「矢はグランベル軍のものだった。何かへ向かって射たのだろう。周辺には、複数の魔物の足跡が残っていた」
「国境の森に、魔物が出ることは珍しくないのでは?」
「種類が問題だ」
ローガンが答えた。
「確認されたのは《鉄牙狼》の足跡です」
軍学の授業で学んだ魔物だった。
灰色の毛と、鉄のように硬い牙を持つ狼型の魔物。一体であればDランク。だが、群れを作り、十体を超えればCランクほどの危険な相手となる。
「《鉄牙狼》は、国境の北にある岩山に住む魔物です。この森へ下りてくることは、ほとんどありません」
「そのとおりだ」
お父様がうなずく。
「群れの縄張りで何かが起きたか。別の強い魔物に追われたか。あるいは、誰かが《鉄牙狼》をわざと森へ誘い込んだ可能性もある」
「帝国が誘い込んだのですか?」
「まだ決めつけることはできない」
地図には、巡回隊が通る道、その周辺の村、砦から捜索へ向かう経路が書き込まれていた。
「第二陣として、負傷者搬送用の荷車と治療師を送る。護衛は二十名。ローガンに指揮を任せる」
「承知しております」
ローガンが頭を下げた。
「出発はいつですか?」
「準備ができ次第だ」
「私も行きます」
考えるより先に、言葉が出た。
部屋にいた者たちの視線が、一斉に集まる。
鑑定の儀式の直後と同じだ。血に染まった兵士を見て、何かしなければと思った。国境へ行きたいと願い、お父様に止められた。あの時の私は、「勇者だから」「以前より強くなったから」と繰り返した。今は、それでは認められないことを知っている。
「セレス」
「戦うためではありません」
お父様が何かを言う前に続けた。
「第二陣は、負傷者を搬送するために向かうのですよね」
「そうだ」
「私は治癒魔法を使えません。ですが、身体強化で大人一人を背負って走れます。風魔法を使えば伝令役として速く走れますし、火魔法を空へ放って合図することもできます」
「だから、自分を連れていけと?」
「はい。ただし、前へ出るつもりはありません」
地図の上に置かれた、第二陣を示す駒を指した。
「私は荷車のそばを離れません。ローガンの命令に従います。戦えと言われれば戦い、退けと言われれば退きます。敵や魔物を見つけても、勝手に追いません」
お父様は黙って聞いている。
「護衛を増やしてほしいとも申しません。今の人数では私まで守れないと判断するなら諦めます」
「諦められるのかい?」
「今は、です」
国境へ行くこと自体を諦めるつもりはない。けれど、今日連れていけない理由があるのなら、それを聞く。足りないものがあれば、次までに身につける。
「ローガン」
お父様が視線を向ける。
「今のセレスを、どう見る?」
「騎士五名を同時に相手にし、五十九呼吸で全員から一本を取りました」
「五人を?」
副官たちがはっきりとざわめいた。
「相手は、訓練を始めたばかりの者ではございません」
ローガンは淡々と続ける。
「全員が国境任務を経験しております。現時点のセレスティア様は、並の騎士一人をはるかに上回り、五名を相手にしても勝ち得る実力でございます」
集まっていた騎士たちの目が変わった。
勇者という名に向ける恐れではない。これから同じ場所で背中を預けるかもしれない、一人の剣士を見る目だった。
「ただし、その間に二度死んでおります」
「死んでないわ!」
「真剣であれば、です」
「分かってる」
「また、本日初めて、意識して《闘気》を右脚へ集めました」
部屋が静かになった。
《闘気》が熟練した騎士にとっても大きな壁であることは、ここにいる全員が知っている。
「使えたのか?」
お父様の目が、領主として判断する時とは違う、魔法を研究する者の輝きを帯びた。
「一瞬だけです」
「どのような色だった? 身体強化との違いは? 魔力の流れはどこから――」
「レオナルド」
お母様の冷たい声が飛ぶ。
「今は、その話ではありません」
「……そうだったね」
お父様がせき払いをした。
騎士たちは、何も見なかったように地図へ目を向けている。
「ローガン。セレスを同行させた場合、任務への支障は?」
「命令に従われるのであれば、戦う力として数えられます」
「勇者だからではなく?」
「一人の剣士として申し上げております」
胸が熱くなった。
けれど、喜ぶのはまだ早い。
「セレス」
お父様が、改めて私を見る。
「森の中で、助けを求める声が聞こえた。ローガンは罠の可能性があるから進むなと命じる。どうする?」
「声の位置と、ほかに聞こえる音を報告します。斥候や探知魔法で確かめられないか提案します。それでも進むなと命じられたら、従います」
「本当に?」
すぐには答えられなかった。
目の前で誰かが助けを求めている。
自分なら救えるかもしれない。
それでも退かなければならない。
想像するだけで、胸が苦しくなる。




