第102話 勇者の成長6
勇者セレスティア・グランベル視点
「一度だけです」
「ありがとう!」
「ただし、私を一歩も動かせなければ、本日の午前の訓練は終了です」
「動かせたら?」
「もう一度だけ、五人との訓練試合を認めます」
「約束よ」
私たちは、訓練場の中央で向かい合った。
ローガンの構えは、半年前と何も変わっていないように見える。木剣を正面へ向け、わずかに腰を落としているだけで、どこにもすきがない。
けれど、以前とは違うこともある。半年前は、どこが危険なのかさえ分からなかった。今は分かる。
右へ踏み込んでも斬られる。左へ回っても、剣より先にローガンの足が動く。正面から入れば、私が剣を振り始める前にのど元へ切っ先を突きつけられる。
つまり、普通に攻めれば何をしても負ける。ならば、普通ではない一歩を作るしかない。
「始め」
小さな合図と同時に、私は息を止めた。
身体強化ではない。魔法でもない。
身体の奥。心臓よりも深い場所へ意識を向ける。
鑑定の儀式で、私の中にあると示された力。何十年も剣を振った騎士でさえ、目覚めないことがあるという力。
《闘気》。
四日前、初めてそのごく一部を感じた。ローガンとの打ち合いで追い詰められ、もう一歩だけ前へ出たいと願った時、胸の奥から青白い熱があふれた。あの感覚を思い出す。
剣へ。腕へ。脚へ。全身へ広げようとしてはいけない。
今の私では、すぐに散ってしまう。
右脚だけ。最初の一歩だけでいい。
青白い光が、右足を薄く覆った。
ローガンの目がわずかに見開かれる。
「はあっ!」
地面を蹴る。
一歩で、ローガンの間合いへ入った。
速い。自分でも、身体が置いていかれそうになる。
木剣を下から斬り上げる。
ローガンの木剣が動いた。
見えない。手首へ軽い衝撃を受けた瞬間、私の木剣が空へ舞っていた。
次の瞬間には、ローガンの切っ先がのど元に触れている。
「そこまでです」
「……一歩も、動いてない」
「いいえ」
ローガンが剣を下ろし、足元へ視線を向けた。右足は元の位置にある。けれど、左足だけが半歩後ろへ引かれていた。
「動いた!」
「半歩です」
「一歩動かす約束だったよね」
「私を一歩動かせれば、です」
「私が一歩踏み込んで、ローガンが半歩動いたでしょう。二人分を合わせれば、一歩を超えていない?」
「数えるのは、私が動いた距離だけです」
「ずいぶん厳しい数え方ね」
「普通の数え方です」
それでも、頬が緩むのを止められなかった。
半年前は、ローガンに剣を向けても何をされたのか分からないまま地面へ転がされていた。
今日は、闘気を使って半歩だけ動かした。
動かせたのは、たった半歩。それでも、私自身は昨日まで届かなかった場所へ、確かに一歩前へ進んだ。
「今のが、《闘気》なのね」
「おそらくは」
「おそらく?」
「あまりに短く、私も確かめ切れませんでした」
「次は、もっと長く出す」
「その前に休憩です」
「半歩は動いたもの」
「一歩ではございません」
「でも――」
「午前の訓練は終了です」
反論を許さない声だった。
勇者になって八か月が過ぎても、ローガンはまったく優しくならなかった。
「もう。あと半歩だったのに」
「あと半歩足りなかった、と申します」
「同じことじゃない?」
「まったく違います」
私は渋々木剣を拾い、訓練場の端へ向かった。
ミレイユが、水筒と布を持って待っている。
「お疲れさまでございました、セレスティア様」
「半歩だったの」
「お見事でございました」
「次は一歩」
「はい」
「その次は一本取る」
「はい」
「ミレイユは、少しくらい難しいって言わないの?」
「申し上げても、おやめにはならないでしょう?」
「もちろん。だって、あと半歩だったんだもん」
「でしたら、最初から応援した方がよろしいかと」
布を受け取り、汗を拭う。
訓練場では、セドリックたちが先ほどの動きを確かめていた。五人で話し合い、私が使った《火花》と《風駆》への対処を考えているらしい。
明日は、同じ方法では勝てないかもしれない。だから私も、明日までに次の方法を考える。互いに学び、強くなる。それが楽しかった。
「セレスティア様」
ミレイユが、少し困ったような声を出した。
「何?」
「先ほど、執務室から使いの方がいらっしゃいました」
「お父様がお呼びなの?」
「はい。その前に、お部屋へ戻っていただきたいとのことでございます」
「着替えるため?」
「それもございますが……」
ミレイユの手には、一通の手紙があった。
冒険者ギルドの紋章が見える。
受け取る前から、誰について書かれたものなのか分かった。
「アレス君のこと?」
「はい」
疲れていたことも、午前の訓練が終わったことへの不満も、一瞬で消えた。
「今、読みたい」
「まず汗を流してください」
「一行だけ」
「一行読めば、最後までお読みになるでしょう」
「では、歩きながらミレイユが読んで」
「セレスティア様」
笑顔で名前を呼ばれた。
この呼び方をした時のミレイユへ、逆らってはいけない。
「……もう。先に着替えます」
◇
部屋の壁には、四枚の手紙が並んでいた。
一枚目は、アレス君が二人の騎士に十数秒で勝ったという、ガレス様からの手紙の写し。二枚目は、冒険者ギルドの特別試験に合格し、十二歳でCランク冒険者になった時の報告書。三枚目は、魔の森で商隊を救い、二十体を超える魔物を一人で倒したという記録。四枚目は、三か月前に届いたBランク昇格の通達だった。
登録初日から依頼の失敗は一度もなし。魔物に襲われた商人や冒険者を何度も救出。複数のCランク指定魔物を単独で退治し、Bランク指定魔物の退治にも成功。ギルドへの報告、素材の処理、依頼人との交渉にも問題なし。
その実績によって、アレス・アークハルトをBランクへ昇格させる。
最初に読んだ時は、しばらく言葉が出なかった。私も強くなっているつもりでいたのに、同じころ、アレス君はBランクの魔物を倒し、十二歳では異例のBランク冒険者になっていた。
悔しくなかったと言えば、うそになる。その日は、夕食まで一言も話さなかった。お父様からは、半年前と変わっていないのではないかと笑われた。
けれど、翌朝には剣を振った。アレス君がBランクになったからといって、私が昨日より弱くなったわけではない。距離が広がったのなら、それ以上の速さで追えばいい。
私は四枚の隣に、新しい手紙を広げた。
「《黒鎧虎》……」
魔の森の中層に住む、Bランク指定魔物。
黒い毛の一本一本が硬い鎧のようになっており、並の剣では傷をつけることさえ難しい。大木を折る前脚と、《闘気》で強化された騎士の鎧さえかみ砕く牙を持つ。
退治には、熟練したBランク冒険者を含む六人以上の一隊が必要だとされる。
それを、アレス君は一人で倒した。
しかも、持ち帰った素材に大きな傷はなかったと書かれている。
「きれいに倒したってこと?」
「そのようでございます」
後ろに立つミレイユが答える。
「どうすれば、剣も使わずに《黒鎧虎》をきれいに倒せるのかしら」
「私には、分かりかねます」
「毛皮を傷つけないよう、内側だけを攻撃したのかな」
「そのようなことができるのでございますか?」
「普通は、できない」
「では、アレス様は普通ではないのでしょう」
「それは、最初から分かってる」
五枚目の手紙を壁に留めようとしたが、空いている場所がない。少し離れたところには、剣術の課題、魔法の記録、国境周辺の地図が貼ってある。それを動かせば場所は作れる。
「どれを外そう」
「こちらの壁に移してはいかがでしょうか」
ミレイユが、ベッドの横を示した。
「そこには、リシアからの手紙があるの」
どれも、私には一枚さえ外せない。けれど、壁の空きはもうほとんど残っていなかった。
その時はまだ、それが今日一番悩ましい問題だと思っていた。




