第9話 約束
今回のお客様は、大切な友人とのすれ違いに心を曇らせた一人の女性です。
一杯のカフェオレと穏やかな時間が、素直な気持ちをそっと後押ししてくれます。
カラン――。
木の扉が静かに開いた。
三十代後半ほどの女性が店へ入ってきた。
紺色のブラウスに白いパンツ。
肩には仕事用らしい大きなバッグを掛けていた。
「いらっしゃいませ」
祐子が迎える。
女性は窓際の席へ座った。
「カフェオレをお願いします」
「かしこまりました」
やがて、珈琲とミルクのやさしい香りが店内に広がった。
「お待たせしました」
「ありがとうございます」
女性はカフェオレを一口飲み、小さく息をついた。
「おいしい……」
それから、少し照れくさそうに笑った。
「こんなこと、初対面の方に話すことじゃないんでしょうけど」
祐子は微笑むだけだった。
「昨日、友人とけんかをしてしまったんです」
女性はカップを見つめる。
「学生の頃からの友人なんです」
「ほんの些細なことだったんです」
「約束の時間に私が遅れてしまって」
「駅に着いたら、友人が改札の前で待っていました」
「私の顔を見るなり、ほっとしたように笑って」
「『心配したよ』って、それだけ言ってくれたんです」
「怒っていたわけじゃなかったんです」
少し間を置く。
「でも私は、その言い方が責められているように聞こえてしまって」
「つい、言い返してしまいました」
女性は苦笑した。
「彼女は、いつも私のことを気にかけてくれるんです」
「誕生日には必ず連絡をくれるし、落ち込んでいるときは、いつも話を聞いてくれる人なんです」
「帰ってから考えたら、心配してくれていただけなんですよね」
店内には静かな音楽が流れていた。
「謝ろうと思ったんです」
「でも」
「今日になっても、まだ連絡できなくて」
祐子は静かにうなずいた。
窓の外では、小学生くらいの男の子が転んでしまった。
男の子は膝を押さえ、今にも泣き出しそうな顔で立ち止まる。
一緒に歩いていた友達が、すぐに手を差し伸べた。
男の子はその手を握って立ち上がると、照れくさそうに笑った。
二人は何事もなかったように歩き出した。
女性は、その様子を見つめていた。
「子どもって、すごいですね」
「さっきまで転んで泣きそうだったのに」
「もう笑っています」
女性は、ふっと笑った。
「私も、素直になればいいだけなんですね」
女性は、バッグからスマートフォンを取り出す。
少し考えてから、短い文章を打った。
『昨日はごめんね。心配してくれてありがとう。』
送信ボタンを押す。
「これでよかったのかな」
そう言いながら、表情は少し晴れていた。
カフェオレを飲み終えると、席を立つ。
「ごちそうさまでした」
「こちらこそ、ありがとうございました」
祐子も笑顔で応える。
女性は軽く頭を下げ、店を出た。
カラン――。
ベルがやさしく鳴る。
「素直なお気持ちを届けられましたね」
ハル子が言った。
「ええ」
祐子はカップを磨きながら微笑んだ。
「きっと、また笑って会えますね」
喫茶 春風。
今日もまた、一人の心に、小さな春風が吹いた。
長い付き合いだからこそ、素直な一言が言えなくなることがあります。
でも、その一言が、また笑顔で会える約束になるのかもしれません。




