第8話 写真
今回のお客様は、一枚の古い写真を持って喫茶 春風を訪れた男性です。
思い出の写真を見つめながら、大切な人との時間について静かに振り返ります。
カラン――。
木の扉が静かに開いた。
六十代後半ほどの男性が店へ入ってきた。
白いシャツに薄い灰色のカーディガン。
肩から小さなカメラバッグを提げていた。
「いらっしゃいませ」
祐子が迎える。
男性は店内をゆっくり見渡し、窓際の席へ腰を下ろした。
「ブレンドをお願いします」
「かしこまりました」
祐子は豆を挽き、静かに珈琲を淹れる。
「お待たせしました」
「ありがとうございます」
男性は珈琲を一口飲むと、手帳にはさんだ一枚の写真を取り出した。
若い女性が、小さな女の子と笑っている写真だった。
その写真を、しばらく見つめていた。
「古い写真なんです」
「娘が小学生になる前だったでしょうか」
懐かしそうに微笑む。
「最近、家の片付けをしていたら出てきましてね」
祐子は静かに耳を傾けた。
「昔はよく写真を撮っていたんです」
「旅行も、運動会も、誕生日も」
男性は少し笑った。
「でも、最近はほとんど撮らなくなってしまいました」
「スマートフォンでいつでも撮れるようになったら、逆に撮らなくなったんですよ」
写真を見つめながら続ける。
「妻にも、『最近は全然撮ってくれないね』って言われたことがありました」
「そのときは笑ってごまかしたんですが……」
「桜を見に行った日も」
「紅葉を見に行った日も」
「『今日はいいか』の繰り返しでした」
小さく息をつく。
「去年、妻が亡くなりましてね」
店内に静かな時間が流れた。
「昔の写真は、たくさん残っているんです」
「でも」
「ここ数年の妻の写真は、あまり残っていませんでした」
祐子は何も言わなかった。
男性は窓の外を眺める。
商店街を、小さな男の子が父親に向かって笑いながら走っていた。
父親は慌ててスマートフォンを取り出し、その姿を撮っている。
男性はその様子を見て、優しく笑った。
「写真って」
「思い出を残すものだと思っていました」
「でも」
「大切な人を見つめる時間でもあったんですね」
「今になって、やっと分かりました」
祐子は静かにうなずく。
男性は写真を丁寧に手帳にはさみ、静かに閉じると、カメラバッグから小さなカメラを取り出した。
「妻との時間は、もう撮れません」
「だから、これからの時間は大切に残しておこうと思います」
「久しぶりに、このカメラを持って娘のところへ行ってみようと思います」
「今度は孫の写真を、たくさん撮ってこようと思います」
「娘とも、ゆっくり話してきます」
笑顔だった。
珈琲を飲み終えると席を立つ。
「ごちそうさまでした」
「こちらこそ、ありがとうございました」
男性は軽く会釈をして店を出た。
カラン――。
ベルがやさしく鳴る。
「笑顔でお帰りになりましたね」
ハル子が言った。
「ええ」
祐子はカップを磨きながら微笑んだ。
「これからは、大切な人を見つめる時間を重ねていかれるのでしょうね」
喫茶 春風。
今日もまた、一人の心に、小さな春風が吹いた。
写真は、その瞬間の景色だけでなく、そのときに向けていたまなざしも残してくれるのかもしれません。
これからも大切な人を見つめる時間を、一枚ずつ重ねていきたいものですね。




