第6話 腕時計
今回のお客様は、一つの腕時計を大切に使い続けてきた年配の男性です。
長い年月をともに過ごした時計が、静かな珈琲の時間を見つめ直すきっかけになります。
カラン――。
木の扉が開き、一人の男性がゆっくりと入ってきた。
七十歳を少し過ぎたくらいだろうか。
白い髪をきちんと整え、アイロンをかけた白いシャツに薄いグレーの上着。
左手には、長年使い込まれた銀色の腕時計が静かに光っていた。
「いらっしゃいませ」
祐子が穏やかに迎える。
男性は窓際の席へ腰を下ろした。
「おすすめの珈琲をいただけますか」
「香りのやわらかなモカはいかがでしょう」
「ゆっくりお過ごしになる方に人気なんですよ」
「では、それをお願いします」
「かしこまりました」
祐子はモカの豆を挽き、静かにお湯を注ぐ。
店内に甘くやさしい香りが広がった。
「お待たせしました」
「いい香りですね」
男性は珈琲を一口飲み、小さく息をついた。
そして、何気なく腕時計へ目を落とす。
それから数分もしないうちに、また時計を見る。
さらに、もう一度。
祐子は男性の様子を見ながら、穏やかに尋ねた。
「お待ち合わせですか」
男性は少し笑った。
「いいえ」
「誰とも約束はしていないんです」
そう言って、また時計を見る。
「長いこと会社勤めをしていました」
「時間に遅れないように」
「次の予定に間に合うように」
「毎日、時計ばかり見ていました」
「それが当たり前でした」
男性は腕時計をそっとなでた。
「退職して五年になります」
「それなのに、今でも時計ばかり見てしまうんです」
「急ぐ予定なんて、一つもないのに」
祐子は静かにうなずいた。
店内には、ゆっくりとした時間が流れていた。
ピアノの音色が静かに響く。
男性は湯気の立つ珈琲を見つめる。
そして、ふっと笑った。
「私だけ、昔の時間の中を歩いているようです」
祐子は穏やかに尋ねた。
「その腕時計は、長いお付き合いなのですね」
男性はうれしそうに腕時計を見つめた。
「五十年以上になります」
「初めてのボーナスで買った時計なんです」
「ずいぶん傷も増えました」
少し間が空く。
男性は少し笑った。
「でも、時間を教えてくれるだけじゃなかったんですね」
「私を急がせる時計でもあったようです」
男性は照れたようにうなずいた。
珈琲をゆっくり味わう。
窓の外では、小学生が笑いながら歩いていく。
男性は、その姿をしばらく眺めていた。
腕時計を見ることは、もうなかった。
最後の一口を飲み干し、カップを静かにソーサーへ戻す。
「今日は、時計に急がされずに珈琲を飲めました」
男性は穏やかな笑顔で言った。
「ありがとうございました」
「こちらこそ、ありがとうございました」
祐子も笑顔で応えた。
男性は立ち上がり、袖口からのぞく腕時計をそっとなでた。
「これからも、よろしくお願いします」
小さくそうつぶやき、軽く会釈をして店を出た。
カラン――。
ベルがやさしく鳴る。
「最後は、腕時計をご覧になりませんでしたね」
ハル子が言った。
「ええ」
祐子はカップを磨きながら答えた。
「ゆっくり流れる時間も、大切な時間なのでしょうね」
喫茶 春風。
今日もまた、一人の心に、小さな春風が吹いた。
時を刻む時計は変わらなくても、その時間の過ごし方は少しずつ変わっていくのかもしれません。
たまには時計を気にせず、ゆっくり過ごす時間も大切にしたいものですね。




