第5話 手帳の余白
今回のお客様は、大きな仕事を終えた一人の女性です。
予定で埋まっていた手帳の先にあった白いページが、少し違って見え始めます。
カラン――。
木の扉が開き、一人の女性が店へ入ってきた。
三十代後半ほどだろうか。
紺色のスーツに、大きな革のバッグ。
肩に掛けたまま店内を見渡し、ようやく奥の席へ腰を下ろした。
「いらっしゃいませ」
祐子が穏やかに迎える。
「お好きなお席へどうぞ」
「ありがとうございます」
女性はバッグを隣の椅子へ置いた。
口が少し開いていたバッグの中には、分厚い資料の束やノートパソコンが見えた。
その一番上に、一冊の手帳があった。
「ご注文はお決まりですか」
「ブレンドをお願いします」
「かしこまりました」
祐子は豆を挽き、静かにお湯を注ぐ。
やがて、やさしい珈琲の香りが店内へ広がった。
「お待たせしました」
女性は礼を言って珈琲を口に運ぶ。
ほっと息をつき、バッグから手帳を取り出した。
今月の予定は、文字で埋め尽くされていた。
会議。
出張。
打ち合わせ。
締切。
ページをめくる。
来月は真っ白だった。
女性はペンを持つ。
何かを書こうとして、止まる。
小さく息をつき、ペンを置いた。
その様子を祐子は静かに見守っていた。
「大きなお仕事が終わられたのですね」
女性は少し驚いたように顔を上げた。
「分かりますか」
「資料が、とても大切そうでしたから」
女性はバッグへ目を向け、小さく笑った。
「一年がかりの仕事でした」
「先週、ようやく終わったんです」
少し間が空く。
「終わったら、のんびりしようと思っていたんです」
「でも……」
白いページを見つめる。
「次の仕事がまだ決まっていなくて」
「急に予定がなくなると、不安になるんです」
祐子は静かにうなずいた。
「忙しいときは、休みたいと思っていたのに」
女性は苦笑する。
「休めるようになったら、今度は落ち着かなくて」
「何か予定を入れなきゃって思ってしまいます」
しばらく店内に静かな時間が流れた。
珈琲の香りだけが、ゆっくりと漂っている。
祐子は穏やかに尋ねた。
「その手帳には、ご自分の予定はありますか」
女性は手帳をめくる。
仕事。
仕事。
仕事。
どのページにも、自分のための予定は見当たらない。
「……ありません」
女性は思わず笑ってしまった。
「全部、仕事ですね」
祐子は微笑んだ。
「その白いページは、まだ何も決まっていないページですね」
女性はもう一度、白いページを見つめた。
何もないページ。
不安ばかりが見えていたページ。
けれど今は、何でも書けるページにも見えてきた。
女性はペンを取る。
そして、ゆっくりと来週のページを開いた。
『母と昼食』
さらに、その次の週。
『美術館』
書き終えると、少し考えた。
そして、今日の日付のページへ戻る。
小さく書き添えた。
『喫茶 春風』
祐子は「喫茶 春風」と書かれた文字を見て、静かに微笑んだ。
女性は少し照れたように笑った。
「これは予定じゃないんです」
「今日、ここへ来たことを残しておこうと思って」
「忘れたくない一日になりましたから」
祐子は静かにうなずいた。
「ありがとうございます」
女性は穏やかな表情でうなずいた。
「仕事じゃない予定を書いたの、久しぶりです」
「楽しみが増えましたね」
祐子も穏やかに微笑んだ。
女性は手帳を閉じてバッグへしまうと、残っていた珈琲をゆっくりと飲み干した。
カップをソーサーへ静かに戻し、小さく息をつく。
その表情は、店へ入ってきたときよりもやわらかくなっていた。
女性はバッグを肩に掛けた。
そして、小さく笑った。
「不思議ですね」
「重さは変わらないのに、少し軽く感じます」
祐子は静かにうなずいた。
女性は席を立ち、お礼を言った。
「ありがとうございました」
「こちらこそ、ありがとうございました」
そして、女性は軽く会釈をして店を出た。
カラン――。
ベルがやさしく鳴る。
「次のお仕事は、まだ決まっていないのですね」
ハル子が尋ねた。
「ええ」
祐子はカップを磨きながら答えた。
「でも、仕事が決まるまでの時間も、その方の人生ですもの」
「その時間も、大切になさるのでしょうね」
喫茶 春風。
今日もまた、一人の心に、小さな春風が吹いた。
予定のない時間は、不安に感じることもあります。
でも、その白いページには、自分らしい時間を書き込めるのかもしれません。




