第3話 白い便箋
今回のお客様は、一通の白い便箋を持って喫茶 春風を訪れた年配の男性です。
書きたい気持ちはあるのに、なかなか言葉にならない。そんな静かなひとときを描きます。
カラン――。
木の扉が開き、一人の年配の男性が店へ入ってきた。
「いらっしゃいませ」
祐子が穏やかな笑顔で迎える。
男性は店内をゆっくり見渡した。
急ぐ様子はなく、窓際の席を選ぶと、小さく息をついて腰を下ろした。
「お好きなお席へどうぞ」
「ありがとう」
男性は窓際の席へ腰を下ろした。
「ご注文はお決まりですか」
男性はメニューを眺めたあと、少し考えて言った。
「おすすめはありますか」
「今日はモカがおすすめです。やさしい香りが楽しめますよ」
「では、それをお願いします」
「かしこまりました」
祐子はモカの豆を挽き、ゆっくりとお湯を注ぐ。
やわらかな香りが、静かに店内へ広がっていった。
「お待たせしました」
「ありがとう」
男性は珈琲を口に運ぶ。
ふわりと広がる香りに、小さく目を細めた。
「いい香りですね」
「ありがとうございます」
男性は鞄から白い便箋と封筒を取り出した。
便箋を広げる。
ペンを持つ。
けれど、何も書かない。
祐子は何も尋ねなかった。
店内には、静かな時間だけが流れていた。
しばらくして、男性がぽつりと話し始めた。
「妻の一周忌が終わりましてね」
祐子は静かに耳を傾ける。
「家の片づけをしていたら、古い引き出しから手紙が出てきたんです」
男性は少し笑う。
「私が単身赴任をしていた頃、妻が送ってくれた手紙でした」
懐かしそうに目を細める。
「何十年も前のものなのに、大事にしまっていたんです」
モカを一口飲む。
「読んでいたら、最後にこう書いてありました」
男性は静かに続けた。
「『あなたも、たまには手紙を書いてください。』って」
少し照れたように笑う。
「結局、一度も書かなかったんですよ」
しばらく沈黙が続いた。
「孫が今年、小学校へ入学したんです」
「お祝いと一緒に手紙を添えようと思ったんですが……」
便箋を見つめる。
「元気ですか、と書いても変ですし」
「勉強を頑張ってね、ではありきたりですし」
苦笑する。
「昔は仕事の書類なら、いくらでも書けたんですけどね」
祐子は微笑んだ。
「お孫さんは、おじいさまからお手紙をいただくのは初めてですか」
「ええ」
「きっと、それだけでもうれしいと思います」
男性は便箋へ目を落とした。
祐子は静かにうなずいた。
「でも、いざ書こうとすると、何を書けばいいのかわからなくて」
モカの香りが、ふんわりと漂った。
男性は便箋を見つめたまま、小さくつぶやく。
「妻なら、何て書いただろうな……」
その言葉のあと、男性はふっと微笑んだ。
ゆっくりとペンを手に取った。
一文字。
また一文字。
白い便箋が、少しずつ言葉で埋まっていく。
書き終えると、男性は満足そうに便箋を封筒へしまった。
珈琲も飲み終えていた。
「ごちそうさまでした」
「ありがとうございました」
男性は小さく会釈をして、扉へ向かった。
カラン――。
ベルがやさしく鳴る。
扉は静かに閉まった。
「奥さまのお手紙が、ご主人の背中を押したのでしょうか」
ハル子が尋ねた。
「そうかもしれないわね」
祐子は磨いていたカップを静かに棚へ戻した。
「でも、書きたいと思われたのは、ご主人自身よ」
喫茶 春風。
今日もまた、一人の心に、小さな春風が吹いた。
言葉は、うまく飾らなくても気持ちは伝わるのかもしれません。
大切な人から受け取った思いは、時を越えて、また誰かへ受け継がれていくのでしょう。




