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喫茶 春風 〜あなたに一杯の珈琲を〜  作者: 秋田コウ


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2/10

第2話 眠るピアノ

今回のお客様は、雨の日にふらりと喫茶 春風を訪れた一人の女性です。

店の片隅に静かにたたずむ一台のピアノが、忘れかけていた大切な時間をそっと思い出させてくれます。

 カラン――。

 木の扉が開き、一人の女性が店へ入ってきた。

「いらっしゃいませ」

 祐子が穏やかな笑顔で迎える。

 女性は肩に掛けたバッグを抱え直し、店内をゆっくり見回した。

 雨に濡れた傘はきちんと畳まれているが、歩く速さにはどこか疲れがにじんでいた。

「お好きなお席へどうぞ」

「ありがとうございます」

 女性は窓際の席に腰を下ろした。

 窓の外では、雨が静かに降っている。

「ご注文はお決まりですか」

「カフェオレをお願いします」

「かしこまりました」

 祐子は豆を挽き、ゆっくりとお湯を注ぐ。

 店内には珈琲の香りが広がり、雨音が心地よく聞こえていた。

 やがて、湯気の立つカフェオレが運ばれてくる。


「お待たせしました」

「ありがとうございます」

 女性は両手でカップを包み、一口飲んだ。

「おいしい……」

 その一言が、自然とこぼれた。

 祐子は微笑む。

「ありがとうございます」

 しばらく静かな時間が流れた。

 女性はぽつりと口を開く。

「最近、毎日があっという間なんです」

 祐子は静かに耳を傾ける。

「朝起きて、仕事へ行って、帰ったら夕飯を作って」

 女性は少し笑った。

「休みの日も洗濯や掃除をしていると、一週間なんて、すぐ終わってしまって」

 カフェオレを見つめる。

「気がつくと、『忙しい』って言葉ばかり使っています」

 その言葉のあと、小さな沈黙が生まれた。

 女性は何気なく顔を上げる。


 店の隅に、一台のアップライトピアノが置かれていた。

「素敵なピアノですね」

「ありがとうございます」

 祐子も、そっとピアノへ目を向けた。

「実家にも、ピアノがあるんです」

 女性の表情が少し和らぐ。

「子どもの頃は毎日弾いていました」

 祐子は静かにうなずいた。

「母は夕飯の支度をしながら、よく聴いてくれて」

 女性は懐かしそうに笑う。

 でも、その笑顔は長く続かなかった。


「そういえば……」

 カップの中へ視線を落とす。

「最近、母に会ってないな」

 独り言のようだった。

「会おうと思えば、いつでも会えるんです」

 少し間があく。


「二年ほど前に帰ったとき、母から『たまには弾いてみたら?』って言われたんですが、『今度ね』って言って、そのままになってしまって」

 祐子は何も言わない。

 女性は静かにカフェオレを飲む。

 温かさが、ゆっくりと胸に広がっていく。

「忙しいから……」

 そう言いかけて、女性は言葉をのみ込んだ。

 忙しかった。

 それは本当だった。

 けれど、それだけではないような気がした。

 いつの間にか、「今度ね」が当たり前になっていた。

 女性は小さく首を振った。

 そして、ふっと笑う。

 その笑顔は、自分自身に向けたもののようだった。


 店内には、変わらず静かな時間が流れている。

 窓の外では、雨音が少しだけやさしくなっていた。

 女性は最後の一口を飲み終える。

「ごちそうさまでした」

「ありがとうございました」


 女性は立ち上がり、もう一度だけ店の中を見渡した。

 視線は、静かにたたずむピアノで止まる。

 小さく会釈をして、扉へ向かった。

 カラン――。

 ベルがやさしく鳴る。

 扉は静かに閉まった。


「あの方は、お母さまに会いたいと思われたのでしょうか」

 ハル子が尋ねた。

「わからないわ。でも、お母さまを思い出されたことは確かね」

 祐子は静かにカップを磨いた。


 喫茶 春風。

 今日もまた、一人の心に、小さな春風が吹いた。

忙しい毎日は、気づかないうちに大切なことを「今度ね」と先送りにしてしまうことがあります。

でも、ほんの少し立ち止まる時間があれば、心の中にしまっていた思いに気づけるのかもしれません。

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