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喫茶 春風 〜あなたに一杯の珈琲を〜  作者: 秋田コウ


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第1話 春風の扉

ようこそ、『喫茶 春風 ―あなたに一杯の珈琲を―』へ。

この物語の舞台は、小さな喫茶店「喫茶 春風」です。

ここには、特別な事件も、大きな奇跡もありません。

あるのは、一杯の珈琲と、静かな時間、そして誰かの話にそっと耳を傾ける人たちです。

忙しい毎日の中で、少しだけ肩の力を抜きたくなったとき。

心の中を整理したくなったとき。

そんなときに、この物語があなたにとって小さな休憩場所になれたら、とてもうれしく思います。

それでは、喫茶 春風の扉を開いてみてください。

 四月。

 やわらかな春風が、小さな喫茶店の扉を優しく揺らしていた。


 店の名前は――喫茶 春風。

 店内は決して広くはない。

 木目を生かしたテーブルと椅子は、新品ではないが、一つひとつ丁寧に手入れされている。

 窓辺には白い陶器の花瓶が置かれ、小さなマーガレットが春の光を受けていた。

 壁には季節の風景画が一枚。

 静かに流れるピアノの音色。

 店内には、落ち着いた空気が満ちていた。

 初めて訪れた人でも、不思議と肩の力が抜ける。

 それが、喫茶 春風だった。


 カウンターでは祐子が珈琲豆を量っていた。

 銀色が少し混じり始めた髪を後ろでまとめ、淡いベージュのエプロンを身につけている。

 華やかではない。

 けれど、その立ち居振る舞いには、長い人生を誠実に歩んできた人だけが持つ穏やかな品があった。


「準備ができました」

 厨房からリョウ子が顔を出した。

「今日はチーズケーキです」

「ありがとう」

 店の奥では、ハル子が帳簿を閉じる。

「在庫の確認も終わりました」

「お願いね」

 祐子は微笑んだ。

 開店してまだ日が浅い。

 それでも、少しずつ足を運んでくれるお客様が増え始めていた。


 カラン……

 扉のベルが鳴った。

「いらっしゃいませ」

 三十代半ばほどの男性だった。


 紺色のスーツに、よく磨かれた革靴。

 右手には黒いビジネスバッグ、左手には小さな紙袋を提げている。

 紙袋の口からは、青いマグカップが少しだけのぞいていた。

 男性は店内をゆっくりと見回すと、窓際の席へ腰を下ろした。

 バッグを足元へ置き、紙袋をそっと椅子の脇に置く。

 祐子はその様子を静かに見つめていた。


「ブレンドをお願いします」

「かしこまりました」

 祐子は豆をミルへ入れ、ゆっくりとハンドルを回し始めた。

 コリ……コリ……コリ……

 静かな店内に、心地よい音が響く。

 挽きたての豆をドリッパーへ移し、少量のお湯を静かに注ぐ。

 ふんわりと豆が膨らみ、香ばしい香りが立ち上った。

 二十秒ほど待つ。

 祐子は細い糸を描くように、お湯をゆっくりと数回に分けて注いでいく。

 店いっぱいに珈琲の香りが広がった。

 男性はその香りを吸い込むように、小さく息をついた。

 肩の力が少しだけ抜けたようだった。


「お待たせしました」

「ありがとうございます」

 男性はカップを両手で包み、一口飲んだ。

「おいしいですね」

「ありがとうございます」

 それだけの会話だった。


 祐子はグラスを磨き始める。

 話しかけない。

 急かさない。

 静かな時間が流れる。

 窓の外では、桜の花びらが春風に乗って舞っていた。

「……いいお店ですね」

 男性がぽつりと言った。

「ありがとうございます」

「時間がゆっくり流れているみたいです」

 祐子は微笑む。

「そう感じていただけたなら、うれしいです」

 再び静かな時間が流れる。

 男性はカップを見つめたまま、小さく笑った。


「誰にも話していないことがあるんです」

 祐子は何も言わず、静かにうなずいた。

「今日で会社を辞めました」

 男性は紙袋に目を落とす。

「十年間勤めました」

 少し照れたように笑う。

「転職先は決まっています。でも、本当にこれで良かったのか、自信がなくなってしまって」

 祐子は黙って耳を傾けた。

「家では心配をかけたくなくて、『楽しみだよ』なんて言ってしまいました。でも、本当は少し怖かったんです」


 店の中には、穏やかな沈黙だけが流れていた。

 やがて、祐子が口を開いた。

「十年という時間は、大きな宝物ですね」

 男性は顔を上げた。

「宝物……ですか」

「はい。宝物だからこそ、手放す時は寂しいものです」

 男性は静かにうなずいた。

「でも、その十年があったからこそ、新しい一歩を踏み出そうと思われたのでしょう」

 男性は何も言わず、窓の外を見つめた。

 春風に乗って桜の花びらが一枚、ゆっくりと舞っていた。

「そうですね」

 その声は、店へ入ってきたときより少しだけ明るかった。

「少し気持ちが楽になりました」

 祐子は微笑んだ。

「それは良かったです」

 男性は席を立つ。

「また来ます」

「いつでもお待ちしています」

 カラン……

 扉が閉まり、春風が店の中をそっと通り抜けていった。


 その背中を見送りながら、ハル子が尋ねる。

「祐子さんは、お客様が会社を辞められたことに気付いておられたのですか」

 祐子は小さく首を振った。

「いいえ」

 窓辺のマーガレットに目を向ける。

「今日は、少しだけ肩の荷を下ろしたい日だったのかなって思っただけ」

 そう言って微笑む。


 喫茶 春風。

 今日もまた、一人の心に、小さな春風が吹いた。

第一話「春風の扉」は、喫茶 春風という店との最初の出会いを描いた物語です。

祐子は、お客様の悩みを解決する人ではありません。

ただ、一杯の珈琲を丁寧に淹れ、その人の言葉を静かに受け止めます。

話すことで気持ちが整理されることがあります。

誰かに「分かってもらう」ことよりも、「安心して話せる場所」が、人の心を軽くしてくれることもあります。

喫茶 春風には、これからもさまざまなお客様が訪れます。

それぞれが抱える思いや人生の節目に、そっと寄り添う一杯の珈琲をお届けできればと思います。

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