6. レティシアとの邂逅
次の日、私は王都の街を歩いていた。
髪は目立たないように三つ編みにし、帽子を深く被る。身に着けているのは、飾り気のない素朴なワンピースだ。完全なお忍び姿である。
今朝トルンとメイドたちに「平民の格好で街を歩きたい」と言い、大騒ぎされたことを思い出す。
「お嬢様お一人でなど、とんでもございません!」
「せめて馬車を!」
「せめて護衛を十人!」
などと全力で止められ、何度か押し問答になった。最終的に、少し離れた場所から護衛がついてくるという条件でようやく折れてもらえたのである。
これから向かうのは、情報ギルドだ。
原作にも登場した場所で、普段は武器屋を隠れ蓑にしている。公爵家の令嬢がそんな場所へ入っていけば、どう考えても目立つ。だから今日は、平民に紛れる必要があったのだ。
(確か、この辺りだったはず……)
原作の文章を思い出しながら、私は石畳の道を進んでいく。
王都は朝から賑わっていた。手を繋いで歩く親子、店先で品定めをする夫人たち、噂話に花を咲かせる令嬢たち。焼き菓子の甘い香りと、馬車の車輪が石畳を叩く音が混ざり合っている。
店もよく繁盛しているようで、恰幅のいい商人が上機嫌で歩いていく。その反対側では、店のエプロンをつけた女性が小さな布袋を持ち、小走りで通り過ぎていった。
その様子を横目に見ながら歩いていると、不意に前方から騒ぎ声が聞こえてくる。
「何かしら……?」
顔を上げると、ある店の前に人だかりができていた。
店先にはブローチやネックレスが品よく並べられている。金細工店らしい。
けれど今は客を迎える空気ではなく、店主らしき男が子供の首根っこを掴んで怒鳴っていた。
「お前が盗んだんだろう!」
「お、俺はやってない!!」
「嘘を言うな!!」
どうやら、子供が何かを盗んだと疑われているらしい。
周囲の人々は眉をひそめたり、興味深そうに囁いたりしている。誰も止めようとはしない。
その時、場違いなほど澄んだ声が響いた。
「何かあったのですか?」
「レ、レティシア様……!」
私は思わず足を止めた。
現れたのは、聖女レティシアだった。若草色のドレスをまとい、心配そうな表情で人垣の中へ入っていく。
昨日の一件が脳裏をよぎる。正直、今は顔を合わせたくない相手だ。
この場を離れようか迷ったが、目の前で子供が責められている以上、何も見ずに去るのも気分が悪い。私は帽子のつばを少し下げ、ひとまず様子を見ることにした。
店主はレティシアへ早口に説明する。
「こんな身なりの子供がうろちょろしていて、怪しいと思ったんです。それで一瞬だけ目を離した隙に、そこに置いてあったネックレスが無くなってたんですよ」
「だから俺はやってない! 別のところを見てたら、ネックレスが無くなってたんだ!」
「そんな馬鹿な話があるかッ! お前以外の客はいなかったんだぞ!」
「そうなのですね……」
レティシアは神妙な顔で頷いた。
子供は身なりからして平民だろう。シャツもズボンも古く、何度も補修された跡がある。小綺麗な金細工店には、たしかに少し浮いて見えた。
だが、それだけで盗人扱いするには早すぎる。
ネックレスが置かれていたらしい場所は、確かに不自然に空いている。けれど、その周囲の商品は驚くほど整っていた。
さらに子供の背丈からすると、台は少し高い。
もし彼が慌てて手を伸ばして取ったのなら、周囲のアクセサリーに触れてもおかしくない。少なくとも、何か一つくらいは位置がずれるはずだ。
(妙ね。子供が盗んだにしては、商品が綺麗すぎる)
さらに視線を動かす。
その時、店主のエプロンが目に入る。そこには四つ葉のクローバーをくわえた鳥の刺繍があった。クローバーの部分は針金のような線で表現されている。
この金細工店のロゴだろう。ちりっと既視感が浮かぶ。
(さっき、同じ刺繍を見たような……)
記憶を探っていると、レティシアが子供の前にしゃがみ込んだ。
彼女は子供と目線を合わせ、穏やかな声で言う。
「ねぇ坊や。正直に話したほうがいいわ。今なら、きっと許してもらえるはずよ」
「お、俺は盗んでなんかない!」
「強がるのは辛いでしょう?」
私は絶句した。
声は優しく、表情も慈悲深い。
だが、言っていることは子供が犯人だと決めつけた尋問である。しかも、今のところ証拠は何ひとつない。
それなのに、周囲からは感心したような声が上がった。
「さすがレティシア様だ」
「お優しいわ」
「罪を犯した子供にも、あんなに丁寧に……」
子供は悔しそうに唇を噛み締めている。
その顔を見た瞬間、私はじっとしていられなくなった。前に進み出る。
「この子はやっていないわ」
「……? あなたは……?」
レティシアが首を傾げる。
私は小さく息を吐き、帽子を脱いだ。三つ編みをほどくと、紺色の髪が肩へ落ちる。
周囲がざわめいた。
レティシアの目も、驚きに見開かれる。
「エスメラルダ様。どうしてこちらに?」
「王都を散歩していたら、たまたまね。騒ぎ声が聞こえたの」
私は子供を庇うように一歩前に出た。
そして店主を見据える。
「この子が盗んだと言っているけれど、証拠はあるのかしら? 見たところ、彼はネックレスを持っていないようだけれど」
「そんなの、協力者に渡したんだろう!」
「それは憶測よね?」
店主の顔が怒りで赤くなる。
「何だと!?」
「憶測で子供を盗人扱いするのは、少々軽率ではなくて?」
わざと冷ややかに言うと、店主はさらに激昂した。
群衆からも「悪女がまた騒ぎを」「聖女様に逆らうなんて」と非難が聞こえる。けれど私は無視した。
今、必要なのは──時間だ。
もし私の推測が正しければ、もうすぐ戻ってくるはず。
レティシアは胸の前で指を組み、困ったように私を見上げた。
「エスメラルダ様、その辺りにしてください。いくら子供を守って、ご自身の評判を上げたいとはいえ──」
「そう?」
その時、通りの向こうに人影が見えた。
私は唇の端を上げ、レティシアと店主を見た。
「では、これはどういうことかしら」
私が指差した先には、布袋を持った小柄な女性が立っていた。彼女は店の前の騒ぎに気づき、呆然としている。
店主はその顔を見るなり叫んだ。
「ミルナ! どこへ行ってたんだ!」
「どこへって……ネックレスの修理依頼ですけど。先ほど、私が持っていくと言いましたよね?」
女性は不思議そうに首を傾げ、袋から箱を取り出して開く。そこには一本のネックレスが収まっていた。
店主の口が半開きになる。
「お前、それ……!」
「まさか、盗まれたネックレスではありませんよね?」
私がにっこりと尋ねると、店主は途端に気まずそうな顔をした。
どうやら正解だったらしい。
王都を歩いていたとき、私はこの女性とすれ違っていた。
店主と同じロゴが刺繍されたエプロン。細長い装飾品が入っていそうな小さな布袋。
もしかしたら、店のネックレスを持ち出したのは彼女ではないか。そう思って、戻ってくるまで時間を稼いでいたのだ。
(予想が当たってよかったわ)
店主は苦々しげに舌打ちした。
「紛らわしいことをしやがって……」
「悪態をつく前に、謝罪すべき相手がいるのではないですか?」
私が告げると、店主はぐっと言葉に詰まった。
子供に謝るのが嫌なのだろう。だが、周囲の針のような視線は彼へ向いている。
逃げ場を失った彼は、小さく頭を下げた。
「……悪かった」
小さな声だった。
当然、それで子供の顔が晴れるわけではない。群衆の中で盗人呼ばわりされたのだ。傷つかないはずがない。
私は少し腰をかがめ、子供と目線を合わせた。
「ねぇ坊や。どうしてこの店に来たの?」
「……今日は、母さんの誕生日だったんだ」
子供は小さな声で言った。
「貯めた小遣いで、綺麗なブローチでもあげたら喜ぶかなって……でも……」
彼は手作りらしいポシェットを上から押さえた。お金が足りなかったのだろう。
私は立ち上がり、店主へ振り向いた。
「この店にあるブローチをすべて買うわ」
「へ?」
「何をしているの。早く包みなさい」
冷たく言うと、店主は慌ててブローチをかき集め始めた。
しばらくして、高級そうなベージュの箱に収められたブローチたちが差し出される。私は金貨を払ってそれを受け取り、子供へ手渡した。
「大人に囲まれて怖かったでしょう。これはお詫びよ」
「……いいの?」
「えぇ。喜んでもらえるといいわね」
子供はおそるおそる箱を抱えた。
そして、ようやく小さく笑った。
「ありがとう、お姉ちゃん!」
宝物を抱えるように箱を胸に押し当て、彼は人混みの向こうへ駆けていった。
その背中を見送っていると、周囲のざわめきが変わっていくのを感じた。
「エスメラルダ様が正しかったのか?」
「噂ほど悪女でもないんだな」
「ちゃんと見ていたのね……」
胸の奥で、ほっと息をつく。少しだけでも、悪女の印象を薄められたかもしれない。
けれど次の囁きに、私はぎくりとした。
「聖女様は、証拠もなく子供を責めていたのか……?」
(そうだわ、レティシアがいたんだった……!)
私は店主の後ろへ視線を向けた。その瞬間、背筋がぞっと冷えた。
レティシアのオリーブ色の瞳が、こちらを睨みつけていた。
先ほどまでの柔らかな聖女の表情はない。ほんの一瞬だけ覗いたその瞳は暗く、ぞっとするくらい鋭かった。
「レティ……」
私は手を伸ばし、言葉をかけようとした。
けれどその前に、レティシアはふいと顔を背け、そのまま人混みの中へ去ってしまった。




