5. 余命三年、一千億ゴールド!?
彼女がドレスの袖を捲ったのを見て、私は目を見張る。白く細い腕には包帯が巻かれていた。
「エスメラルダ様につけられた火傷も、もう回復に向かっていますし」
先ほどまで私に対して比較的好意的だった雰囲気が、反転した。一気に冷たい視線が私に投げかけられる。
さらに「酷い、やっぱり悪女だ」「レティシア様も可哀想に」と私に対する非難や、レティシアへの同情が満ちる。
一方で私は混乱していた。
エスメラルダの回想だと、レティシアに向かって火の玉を投げつけていたのは事実だった。しかしレティシア自身には当たらず、彼女は怪我していなかったはずだ。
だがそれを指摘することはできない。会場の雰囲気は完全にレティシア寄りだ。悪女が何を言ったところで、火に油を注ぐだけだろう。
私は言葉を無くし、俯くことしかできなかった。
「……へぇ」
そんな私たちの様子を、興味深そうに銀髪の美青年──ベリルは見つめていた。
しかし困惑していた私は、その視線に気づくことはなかった。
パーティが終わり、屋敷へ戻って湯浴みを済ませ、ほとんど放心状態のままベッドへ倒れ込んだ。
ふかふかの寝具が全身を受け止めてくれる。普段ならこの柔らかさだけで「生きててよかった」と感動できるのに、今夜ばかりは胸の奥が重かった。
結局、パーティでは悪女のレッテルを剥がすことはできなかった。
それどころか、レティシアとの会話のせいで評判はむしろ下がっただろう。あの場の冷たい視線を思い出すだけで、背中に嫌な汗が滲む。
私は枕に顔を半分埋めながら、先ほどの彼女の言動をもう一度思い返した。
(レティシアが嘘をついた? それとも、私の知らないところでエスメラルダが攻撃したのかしら?)
考えれば考えるほど、頭の中に疑問ばかりが増えていく。けれど、どれも推測の域を出ない。
「……考えても答えは出ないわね」
小さく呟き、私は諦めて上半身を起こした。ふと自分の手のひらに視線を落とす。
「魔法か……」
この世界に転生してから、私はまだ一度も魔法を使ったことがない。
胸の奥がうずっと疼いた。
私はそっと右手を持ち上げ、手のひらに意識を集中させる。
すると淡い光がふわりと浮かび上がり、小さな魔法陣の形を作っていった。
「おお……!」
思わず感嘆の声を上げかけた、その瞬間。
ぽっと、小さな炎が手のひらの上に灯った。
「これが魔法!」
本当に、炎が浮かんでいる。
熱いはずなのに、不思議と手のひらは焼けない。揺れる炎は宝石のように赤く、見ているだけで胸が高鳴った。
「すごい……! 本当に魔法だわ!」
アニメや映画でしか見れなかった光景が、目の前で繰り広げられている。すごいすごいと、思わず子供のようにはしゃいでしまう。
しかし、その時だった。
右腕に、凄まじい激痛が走った。
「ッ!!」
息が詰まる。
反射的に左手で右腕を押さえた。何か強い力でぎりぎりと締め上げられ、内側から焼かれているような痛みだった。
「な、に……これ……!」
額に脂汗が滲む。呼吸が乱れ、視界の端が白く霞んだ。
必死に痛みに耐えながら袖を捲り上げた瞬間、私は絶句する。
右腕に、黒い薔薇のような模様が浮かび上がっていたのだ。
さっき湯浴みをした時には、こんなものはなかったはずだ。
「待って、この模様……」
どこかで見たことがある。私はふらつきながらベッドから降りた。
鉱山の成果を待つあいだ、私はエスメラルダの部屋にある本に一通り目を通していた。彼女の部屋には、医学、歴史、魔法、礼法と、実にさまざまな本が並んでいた。
もっとも、どれも一度も開かれた形跡はなかったので、おそらくトルンあたりが教養のために揃えたのだろう。
その中の一冊に、この模様と似た挿絵があった気がする。
私は本棚に駆け寄り、記憶を頼りに背表紙を探した。
「これだわ!」
手に取ったのは、『アルディエラ医学報』という雑誌だった。
医学に関する論文や症例が載ったものらしい。急いでページをめくっていくと、目的の挿絵が見つかった。
そこには、私の腕に浮かんだものとそっくりの黒い薔薇の模様が描かれていた。
「黒薔薇病……?」
病名を読み上げる。
その下に書かれた文章を目で追っていくにつれ、呼吸が浅くなった。
「奇病」「魔力の使用をきっかけに発症」「原因不明」
不穏な単語ばかりが並んでいる。そして次の一文を目にした瞬間、背筋が凍りついた。
「病が進行すると……他者に感染する?」
真っ先に浮かんだのは、トルンやメイドたちの顔だった。
もし知らないうちに病が進み、彼らへ移してしまったら。私の世話をしていただけの人たちを、同じ病に巻き込んでしまったら──。
「それだけは……駄目よ」
思わず声が漏れた。
自分が病気になるだけなら、まだいい。けれど、何の関係もない人まで巻き込むわけにはいかなかった。
(感染するのは、どの段階から? 接触? 飛沫? それとも魔力を通して?)
ページの隅々まで目を走らせる。だが、詳しい感染経路についての記述はない。
分からない以上、進行する前に治すしかない。
そして、次の一文で私は完全に凍りついた。
「発症して三年以内に治療しなければ……死に至る」
声が震えた。
けれど、そのすぐ下に治療薬についての記述があることに気づき、私は縋るように読み進めた。
大丈夫。私は公爵家の娘だ。
どんなに高い薬でも、どんなに入手困難なものでも、公爵家の力を使えば何とかなるはず。
そう思ったのに、次の行を読んだ瞬間、血の気が引いた。
「治療にはブランジェムという鉱石が必要。その額……
一千億ゴールド!?」
あまりにも桁が大きすぎて、頭が真っ白になる。
ちなみに、エスメラルダの個人貯金は、
ゼロだ。
「………………………………………………………………終わった」
私はベッドの上で大の字になった。魂が抜けたように、天井を見つめる。
腕の激痛は三十分ほどで治まり、黒薔薇の模様も薄くなった。けれど、医学報に書かれていた内容は消えてくれない。
いくら公爵家とはいえ、一千億ゴールドなんて大金を簡単に用意できるはずがない。
私は枕に顔を押し付けながら、エスメラルダへの愚痴を叫ぶ。
「あんなに宝石を買い込んだり、無駄に自分の別荘を作ったりするな──ッ!!」
クローゼットや宝石箱に収まりきらないほどのドレスやアクセサリー、公爵家敷地内に造らせたエスメラルダの別荘(※現在はほぼ使われず)、そんなものを思い浮かべてはやりきれない気持ちになる。
転生前のエスメラルダが黒薔薇病の存在を知っていたのかは分からない。けれど、少なくとも今の私は知ってしまった。
このままだと、私は三年以内に死ぬ。
「……うそでしょ」
目尻に涙が滲んだ。
前世では過労死した。せっかく今世では美貌も地位もお金もある公爵令嬢に生まれ変わったのに、また死ぬかもしれないなんて。
(この世界では、おばあちゃんになるまで生きたかったのに……)
エスメラルダに関する問題は確かにあった。
悪女の評判、レティシアとの関係、断罪ルート。けれど、公爵家の力と原作知識があれば、何とかなると思っていた。
それなのに、まさか病気。しかも治療費が一千億ゴールド。
あまりの現実に、私はしばらくベッドの上で抜け殻になっていた。
その時、扉を叩く音がした。
「……」
メイドだったら寝たふりをしよう。
そう思ったのに、扉の向こうから聞こえてきた声で、私は反射的に起き上がった。
「エスメラルダ、起きているか?」
「は、はい!」
父の声だった。
慌ててベッドから降り、扉へ向かう。開けると、父が紙袋を持って立っていた。
いつもの威圧感はあるが、どこか気まずそうな顔をしていた。
今は一人にしてほしいが、そんなことを言えるはずもない。私は黙って父の言葉を待った。
父は少し視線を逸らし、紙袋を扉の傍へ置いた。
「それは……?」
「鉱山の死亡者数の改善策を出した報酬だ」
淡々と言い、そのまま踵を返そうとする。
けれど、部屋を出る直前、父はぼそりと呟いた。
「……鉱山の件は助かった。礼を言おう」
それだけ言って、扉は静かに閉められた。
私はしばらくその場に立ち尽くした。
あの父が、礼を言った。驚きと戸惑いで胸がいっぱいになる。
(一体、何を持ってきてくれたのかしら?)
全く予想ができないまま、紙袋の中をおそるおそる覗いた。
そこには、ずっしりと重そうな麻袋と、二つ折りにされた紙が入っていた。手紙を取り出し、そっと開く。
『一千万ゴールドある。好きなことに使いなさい』
「いっせんまん……!?」
思わず声が裏返った。
鉱山の件を解決しただけで、一千万ゴールド。
さすが公爵家。規模が違う。
そう感心したのも束の間、先ほど見た「一千億ゴールド」という数字が頭に蘇った。私は肩を落とす。
「一千億ゴールドなんて、宝くじとか投資とかで一発当てないと無理よね……」
呟いたその瞬間、ふと、思考が止まった。
ここには、一千万ゴールドがある。ゼロではない。
これを元手にお金を増やせば、もしかしたら。
「そしたら私は……生きられる?」
胸の奥に、小さな光が差した気がした。
私はもう、薄給で働くしがない会社員ではない。
この国に名を轟かせる公爵家の一人娘だ。美貌も、地位も、家の看板もある。前世で身につけた原作知識だってある。
使えるものは全部使えばいい。
私は涙を拭い、強く拳を握った。
「そうよ、稼げばいいんだわ!」
自分の声が、部屋に響く。
「そして今世こそ、贅沢だらだらライフを満喫するのよ!!!」
拳を突き上げながら、私は強く決意した。
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