3. 帳簿の中の違和感
父と執事が部屋を去り、部屋には私ひとりが残された。椅子に座り、目の前に積まれた書類を眺める。
量こそは多いが、私に命じられたのは「鉱山の売上をまとめる」こと。パソコンがないのは正直不便だが、やること自体は単純作業だ。前世の地獄と比べれば楽勝である。
書類をめくり、ヴェルネ鉱山の概要を読み進める。
「ふんふん……ヴェルネ鉱山はベルメール家が保有……」
そして次の一行を読んだ瞬間、思わず声が漏れてしまう。
「え!? ダイアモンドが採れるの!?」
その瞬間、原作の設定が頭に浮かんだ。
ベルメール公爵家は多くの事業を手がけているが、その中でも最大の柱となっているのが宝石関連事業だ。国内に留まらず、国外にも多くの鉱山を保有し、ダイアモンドをはじめとする多種多様な宝石を扱っている。
その影響力は相当なもので、「宝石が輝くとき、影にベルメールあり」なんて言葉まであるほどだ。
原作でもその設定は印象的に描かれていた。
社交界のたびに異なる宝石を身に纏い、会場の視線を一身に集めるエスメラルダ。周囲の取り巻きは、毎回大騒ぎで褒めちぎり、その賛美を浴びて、エスメラルダはすっかり有頂天になる。が、肝心のレオンハルトは無反応だった。
やがて溜まりきった怒りは、何の罪もないレティシアへと向けられ、エスメラルダは感情のままに彼女へ当たり散らすようになる。
「宝石かぁ……いいなぁ……」
うっとりと呟いてしまう。
前世では、服や美容にだってお金をかけられなかった。もちろん宝石なんて一つも持っていない。
それでも、美術館やショーケースに並ぶ宝石を見るのは好きだった。小さな粒でも確かに光を放ち、静かに存在を主張している。その輝きに、何度も目を奪われたものだ。
私はぎゅっと拳を握り締め、改めて心に誓った。
(やっぱり、この生活を手放したくない……!)
公爵家の娘ならば、様々な宝石を身につけられるはずだ。原作のエスメラルダのように、誰かに見せつけたいわけじゃない。ただ、自分のために宝石を纏う。その贅沢と喜びを、一度でいいから知ってみたかった。
そのためには、父を何としてでも説得させないといけない。
羽ペンを握り締め、無心で売上を書き写していく。数字を追い、整理し、淡々と書き連ねていくうちに、周囲の音が完全に消えていった。
──どれくらい経ったのだろう。
不意に、目が重たくなる感覚がした。
顔を上げると、窓の外はすでに夕焼け色に染まっていた。
確か着手したのは昼前だったはずだ。書類に目を落とすと、ほぼまとめは終わっていた。
(これ、一週間もいらなかったな)
そう思いながら、確認のために書類をぺらぺらとめくっていく。その時だった。
「ん?」
最後の方にまとめてあったデータが、ふと目に留まる。
「……鉱山での、死亡者数?」
思わず声に出して読み上げた瞬間、胸の奥がずしりと沈んだ。
日本とこの世界は、時代も価値観も違う。単純に比較することはできない。
それでも毎年、数十人という数字は決して軽くはない。さらに目を走らせて、私は気づく。
(年々、増えてる? これって……)
嫌な予感が背筋をなぞる。
その時、静寂を破るように、控えめなノック音が響いた。思わず背筋が跳ね、振り返る。
すると扉の向こうから、遠慮がちな声が聞こえてきた。
「お、お嬢様……トルンです」
先ほどの執事の声だ。
トルンという名前だったのかと頷き、部屋へ入るよう促す。
扉を開けた彼は、叱られる覚悟を決めたように身を縮こませていた。顔色は青く、こちらを気遣う視線が痛いほどだ。
「あの、進み具合はいかがでしょうか。もし難しそうであれば、私にも何か──」
「もう終わったわ」
「……え?」
言葉が理解できなかったのだろう。ぽかんと口を開けたまま、固まっている。
私は書類をめくり、売上について気づいたことを説明した。
「ダイアモンドだけに依存するのはリスクがあるけど、同一地域から鉄が掘れるのは強いわね。軍事用として貴族が定期的に買い付けているから、売上が安定している。顧客を逃がさないためにも、年間契約にするのも……」
そこまで言ったところで、トルンが完全にフリーズしていることに気づいた。目を白黒させて、ただ呆然としている。
彼の前で手を振り「大丈夫?」と声をかけるが、やはり返事がない。ただの屍のようだ。
私は一つ息をついて、書類に再び目を落とす。そこには先ほど見た「死亡者数」の数値が並んでいた。
その時、記された数字と、前世の知識が繋がっていく感覚がした。死亡者数や、死亡の原因が書かれた文章を慌てて指で追っていく。
(これって……)
脳裏で閃き、私ははっと顔を上げた。弾けるようにして、トルンの方を振り向く。
「ねぇ、お願いがあるの」
「は、はい!」
「追加で資料を持ってきてくれる?」
彼は驚いたように息を呑んだ。
ただ流石はあの父の秘書と言うべきか、すぐに切り替えて「どんな資料をお望みでしょうか」と尋ねてくれる。
私は必要な資料を書き出し、トルンに渡した。彼は一礼し、すぐに部屋を去って行った。
私は一度深く息を吸い、羽ペンを握り直す。そして新しい紙を取り出し、考えを整理するように書き込んでいった。
*
一週間後。
私は緊張で心臓を早鐘のように鳴らしながら、父の執務室の扉をノックした。
中へ入ると、父は窓際の椅子に腰掛け、こちらを静かに見据えていた。私の姿を捉えるなり、片方の唇だけを吊り上げて笑う。
「逃げなかったことだけは評価してやろう」
「……こちら、売上をまとめたものです」
「ふむ」
「そしてもう一つ──ヴェルネ鉱山に関する報告書です」
私が書類を手渡した瞬間、部屋にいたメイドたちがざわめいた。空気が一段と張り詰める。
父の片眉が、ぴくりと怒ったように跳ね上がった。
「報告書だと?」
「はい」
「私はそんな指示はしておらんぞ。何を勝手な……」
怒りが爆発しかけた、その瞬間だった。
父の視線が、書類の文字に引き寄せられる。言葉が途切れ、食い入るように数字を追い始めた。
その異変に気づいたのだろう。周りのメイドたちも戸惑うように視線を交わし、父の様子をうかがっている。
やがて父は、ゆっくりと顔をあげた。金色の瞳には先ほどの苛立ちはなく、代わりに真剣な光が宿っている。
「『ヴェルネ鉱山の死者に関する報告書』、これをお前が作ったのか?」
「えぇ」
私は頷き、真正面からその視線を受け止めた。
「お父様。近年増加しているヴェルネ鉱山の死者数について──」
そこで一瞬の間を置き、父の目をまっすぐに射貫く。
「改善策を、聞いていただけませんか?」




