32. 悪女が選んだ相手
花の女神祭から二週間後。私は王家が主催する祝賀パーティへ向かう馬車に揺られていた。
「やっと落ち着いてきたね」
向かいに座るベリルの言葉に、私は小さく息を吐いた。
この二週間で王家による調査が進み、ようやく全容が明らかになっていた。
「レティシアに黒魔法の指輪を渡したのは、やはり教会上層部だったそうだよ」
私は静かに頷いた。
彼らの目的は、黒薔薇病を利用して聖女の奇跡を演出することだった。
「君を黒薔薇病にして、それをレティシアが治す。聖女の慈悲深さを印象づける作戦だったらしい」
「……私を見世物にするつもりだったのですね」
「うん。しかも聖女への信仰を高めて、教会の権威まで強めようとしていたらしい」
ベリルは呆れたように肩をすくめる。
「だけど、君がすでに黒薔薇病だったのは想定していなかった」
あの時、黒魔法は私の体に拒絶され、近くにいた令嬢へ移った。そこから感染が広がり、結果として広場全体を巻き込む惨事になったのだ。
「レティシアも自分の評判を取り戻すために計画へ加担していたらしい。教会関係者と一緒に、もう身柄は拘束されているよ」
「今後はどうなるのでしょう?」
死者こそ出なかったものの、多くの民を危険に晒した。軽い処罰で済むはずはない。
「正式な裁きが下される。教会にもかなり大きな処分が下るだろうね」
「そうですか……」
そこまで聞いて、私は右腕へ目を落とした。そこにはもうあの禍々しい黒薔薇の模様はない。
「……終わったのですね」
思わず零れた言葉に、ベリルは少しだけ目を細めた。
「うん。終わったよ」
その一言が不思議なくらい胸に染みた。
本当に、終わったのだ。そう実感したところで、馬車の速度がゆっくりと落ちていった。
窓の外には煌びやかな王宮が夜の闇に浮かび上がっている。
やがて馬車が停まり、従者が扉を開けた。ベリルが先に降り、こちらを振り返る。
そして私へすっと手を差し伸べた。
「お手を。今夜は君が一番輝く夜だ」
そんなセリフを涼しい顔で言われるこちらの身にもなってほしい。
少しだけ速くなった鼓動をごまかすように、私はふっと笑って、その手に自分の手を重ねた。
*
ベリルにエスコートされながら会場へ向かっていく。そして大扉の前で、私は改めて自分の姿を見下ろした。
身に纏っているのは、夜空を溶かしたような濃紺のドレスだった。
首元を飾るのは、大粒のムーンストーンをあしらった首飾りだ。ペンダントトップには、女神リュミエラの姿が精巧に彫られている。一見すると控えめだが、光を受けるたびに青白い輝きが浮かび上がった。
「似合っているよ」
隣からやわらかな声がした。ベリルが私を見つめ、満足そうに微笑んでいる。
彼もまた濃紺の正装に身を包んでいた。上着の襟や袖口には、白金の糸で細い蔦模様が刺繍されている。首元には深い緑色のクラバットが結ばれ、その中央をムーンストーンが留めていた。
まるで示し合わせたような装いだ。今日、私たちを見た人々がどのような噂をするのか。
考えるだけで心臓が落ち着かなくなるというのに、ベリルはいつもどおり涼しい顔をしている。何だか悔しい。
「ありがとうございます。ベリル様も素敵ですわ」
なるべく平静を装って答える。
するとベリルは私の右手を取り、細い銀色の腕輪を通した。
「これを君に」
「私に?」
腕輪の中央には、深い青色のサファイアが嵌め込まれていた。シャンデリアの光を受けて煌めくその美しさに、思わず見惚れてしまう。
感謝を伝えようと顔を上げた瞬間、言葉を失った。
ベリルが、あまりにも幸せそうに笑っていたからだ。
「ベリル・ランフォード様、エスメラルダ・ベルメール様のご入場です!」
大扉の前に立つ侍従の声に、はっと我に返る。ゆっくりと扉が開き、会場のシャンデリアの光が眩いほど差し込んできた。
その輝きに目を細めた瞬間、私たちを包んだのは大きな歓声だった。
「エスメラルダ様だわ!」
「花の女神様!」
人々が熱を帯びた声を上げる。胸の奥が震えた。
以前、私に向けられていたのは悪意や侮蔑を含んだ視線ばかりだった。
だが今では会場中の人々が、敬意と憧れの眼差しで私を見つめている。
ベリルにエスコートされながら、私は顔を上げて会場の中央を進んでいく。
やがて玉座の前へ辿り着き、私とベリルは揃って腰を低くした。
「アルディエラを照らす国王陛下、ならびに王妃陛下にご挨拶申し上げます」
国王陛下は満足そうに頷いた。
「面を上げよ」
ゆっくりと顔を上げる。
「先日の花の女神祭での働き、実に見事であった」
「恐れ入ります」
国王陛下は私を見つめたあと、会場へと視線を移した。
そして、片手を上げる。華やかな音楽が止まり、ざわめきに満ちていた広間が瞬く間に静まり返った。
「今宵、皆に伝えなければならぬことがある」
重々しい声が、会場へ響き渡る。
私はベリルと並んだまま、国王陛下の言葉を待った。
「先日の花の女神祭では、未曾有の災厄が我が国を襲った。だがその中で己の危険も顧みず、多くの民を救った者がいる」
国王陛下の視線が、私へ戻ってきた。
「エスメラルダ・ベルメール」
胸が大きく鳴る。
「そなたの知恵と勇気が、多くの命を救った。よくぞ、我が国の民を救ってくれた」
胸の奥が熱くなった。
私はドレスの裾を摘み、深く腰を落とす。
「身に余るお言葉にございます」
どうにかそれだけを返す。
国王陛下は威厳に満ちた表情を、わずかに綻ばせた。
「そして、花の女神祭において最も多くの白薔薇を捧げられた者として──そなたを、本年の『花の女神』と正式に認める!」
その瞬間、広間を震わせるほどの拍手と歓声が湧き上がった。
「エスメラルダ様!」
「花の女神様!」
何度も名前を呼ばれる。視界の端がわずかに滲んだ。
私が選び取った結果が、確かにここにある。
隣を見ると、ベリルが私を見つめていた。いつもの余裕のある微笑ではない。
まるで自分のことのように、誇らしそうな表情だった。
その後も、私のもとには多くの貴族たちが訪れた。以前なら私と目が合うだけで顔を背けていた令嬢まで、頬を紅潮させながら声をかけてくる。
やがて会場の熱気が少し落ち着いた頃、流れていた音楽が変わった。どうやらダンスの時間が始まるらしい。
国王陛下に呼ばれていたベリルの姿を探そうとした、その時だった。
「エスメラルダ」
聞き覚えのある声に振り返る。そこにはレオンハルトが立っていた。
花の女神祭以来、まともに顔を合わせるのは初めてだった。以前より少し痩せたように見える。
だが私を見つめる紫色の瞳には、相変わらず妙な自信が残っていた。
「少し、二人で話がしたい」
「お断りします」
即答すると、レオンハルトの唇がぴくりと震えた。なぜ今さら二人きりにならなければならないのだろう。
しばし言葉を失っていた彼は、やがて苦々しげに口を開いた。
「……悪かった」
思いがけない言葉に、私は目を瞬いた。
まさかレオンハルトが私に謝罪する日が来るとは思わなかった。もしや本当に改心したのだろうか。
わずかに期待しながら、次の言葉を待つ。
「お前がこれほど優秀な女性だとは、思っていなかったんだ」
レオンハルトはそう言うと、私へ片手を差し出した。
「今のお前なら、私の隣に並んでもいい」
前言撤回。何一つ改心していない。
彼としては誠心誠意謝罪し、私へ最大限の譲歩を示したつもりなのだろう。
「嬉しいだろう」と言わんばかりの表情が、その勘違いを雄弁に物語っていた。
「レオンハルト様」
「何だ。やはり私と踊りたくなったか?」
千発ほど火魔法を放ちたくなる衝動を、どうにか飲み込む。
きっと彼が見ているのは今の私ではない。以前のエスメラルダだ。
レオンハルトに愛されたくて、嫌がられても追い続けたエスメラルダ。彼女の行動が正しかったとは思わない。
だからこそ私自身の言葉で終止符を打つべきなのだろう。
「私はもう、殿下に微塵も興味がありません」
レオンハルトの顔から、笑みが消えた。
「……は?」
「貴方に認められたいとも、隣に立ちたいとも思っておりません」
差し出された手を見下ろし、静かに言葉を続ける。
「私の隣にいてほしい相手は、私が決めます」
「一体誰を……」
レオンハルトがそう呟いた瞬間、ふわりと甘い香りが漂った。
振り返ると、ベリルがすぐそばに立っていた。その濃紺の瞳を見つめて私は微笑んだ。
「ベリル様」
私は彼へ片手を差し出した。
「私と一曲、踊ってくださいますか?」
そう告げると、ベリルは一瞬だけ驚いたように目を見開いた。だがすぐに私の手を取り、その甲へそっと口づけを落とす。
「喜んで」
私は呆然と立ち尽くしているレオンハルトへ一礼し、ベリルの腕に自分の腕を絡める。
歩き出したところで、隣から小さな声が落ちてくる。
「……今のは反則だよ」
「何のことでしょう?」
顔を上げると、ベリルは困ったように笑っていた。耳の先が少しだけ赤い気がする。
けれど、その表情はどこまでも幸せそうだった。
次回、最終話です!




