30. 黒薔薇病を治す方法
名前を呼ばれ、はっと顔を上げる。
そこには額に汗を滲ませたベリルがいた。いつもの余裕のある表情は消え、濃紺の瞳が心配そうに私を見つめている。
「大丈夫?」
「は、はい……」
彼の声を聞いた瞬間、遠のいていた意識が一気に現実へ引き戻された。喉の奥に詰まっていた息をようやく吐き出す。
ベリルはわずかに安堵したような表情を浮かべたあと、私の右腕へ視線を落とした。
「君の黒薔薇病は?」
「い、今のところは……大丈夫です」
そう答えた瞬間、ちりっと小さな違和感がよぎる。
「……?」
だがその違和感の正体を確かめるより先に、別の方向から悲鳴が上がった。
視線を向けると医療班の一人が右腕を押さえ、膝をついていた。袖の隙間から黒薔薇の模様が這い上がっている。
血の気が引いた。このままではさらに患者が増えてしまう。
「黒薔薇病にはブランジェムが有効です!」
私は発作に備えて身につけていた腕輪を外し、ベリルへ見せた。
「これを砕いて、患者たちに飲ませれば──」
そこまで言って、言葉が止まる。腕輪についているブランジェムは、わずか五つしかない。
舞台の上だけでもすでに患者はそれ以上いる。民衆の中にも感染者が現れ始めたなら、到底足りない。
ベリルも同じことに気づいたらしい。苦しげに顔を歪め、腕輪を見つめた。
「それだけだと全員分には……」
「……ええ」
歯を食いしばる。一人ずつ飲ませていては数が足りない。そもそもこれから何人、感染するのかも分からない。
(一体どうすれば……!)
その時、ベリルがレティシアへ目を向けた。
「聖女の胸元についている石もブランジェムだ」
その言葉に、はっとする。
「あれを砕けば、もう少しは──」
ベリルの言葉を聞きながら、先ほど目にした光景が脳裏を駆け巡った。
白魔法に反応して、強く輝いたブランジェム。
白い光に包まれた令嬢。
そして、彼女の腕から消えた黒薔薇の模様。
さらに以前オーナーと交わした会話が蘇る。
『石そのものが、秘密の核心ではない可能性があります』
『つまり、ブランジェム単体では意味がない?』
『ええ。あるいは、別の何かと組み合わせる必要があるのかもしれません。推測にすぎませんが』
バラバラだった情報が、頭の中で急速につながっていく。
レティシアは白魔法とブランジェムを同時に使ったことで、黒薔薇の模様を消した。
(もしかして……)
白魔法と組み合わせ、その力を広場全体へ行き渡らせることができれば──。
頭の中で最後のピースがはまった。私は勢いよくベリルを見上げる。
「ベリル様」
名前を呼ぶと、ベリルの紺色の瞳が私を見た。
「私と──協力してください」
自分でも驚くほど強い声が出た。ベリルは一瞬だけ目を見開く。
けれど、すぐにいつもの余裕を取り戻したように微笑んだ。
「もちろん」
迷いのない返事だった。その言葉だけで、胸の奥に残っていた恐怖が少し薄れる。
私は大きく頷き、レティシアのもとへ駆け出した。
彼女は荒い息を繰り返しながら、再び白魔法を発動しようとしていた。手元には淡く輝く魔法陣が展開されている。だが光は弱く、今にも消えてしまいそうだった。
私はその術式を目に焼きつけながら、声を張り上げる。
「レティシア様! もう一度、白魔法を展開してください!」
レティシアがこちらを振り返った。
返ってきたのは、助けを求める表情ではない。憎悪が滲んだ鋭い視線だった。思わずびくりと体が強張る。
「何をなさるおつもりですか……!」
レティシアは肩で息をしながら、低い声で呟いた。
「まさか、私の魔法を奪うつもりですか?」
「違います! 今はそんなことを言っている場合では──」
「そもそもどうして貴方には効かなかったの……?」
ぶつぶつと呟きながら、レティシアは私の右腕を見つめた。その瞳には焦りと混乱が入り交じっている。
やはり先ほど私へ何かを仕掛けたのは彼女なのだ。問い詰めてやりたいが、今はその時間すら惜しい。
また別の場所から悲鳴が響く。新たな感染者だ。
(時間がない……!)
私はレティシアの手元に残る魔法陣へ視線を走らせた。消えかけていく魔法陣を頭の中へ叩き込み、踵を返す。
そして広場の端へ向かって走っていく。
目的地は、祭りのために設置した香りを拡散するアーティファクトだった。
白い台の上には、細長いガラス製の装置が置かれている。中には、ミラが調香した香水が淡い光を帯びながら揺れていた。
私は腕輪を外し、追いついたベリルへ差し出した。
「このブランジェムを、すべて砕いてください!」
「分かった」
腕輪からブランジェムを外し、手のひらへ載せる。
ベリルが魔力を込めると、硬い石に細かな亀裂が走った。次の瞬間、ブランジェムは白い光を放ちながら粉々に砕ける。
私はその様子を横目で確認しながら、ポケットからメモ帳とペンを取り出した。そして先ほど見た光景を、忘れないうちに書き留めていく。
(一つも取りこぼしては駄目!)
記憶の中に残る術式を、一文字ずつ必死につなぎ止める。メモ帳に文字列が隙間なく並んでいった。
その間に、ベリルはアーティファクトの上部へ手を伸ばしていた。装置の構造を確かめると、迷うことなく蓋を開ける。
そして砕いたブランジェムを中へ流し込んだ。
「え……?」
思わずペンを止め、尋ねる。
「なぜ……中に入れると分かったのですか?」
彼はアーティファクトの蓋を閉じながら、こちらを見た。
「ブランジェムと白魔法を組み合わせるのだろう?」
あまりにも当然のことのように答える。
私は、ブランジェムをアーティファクトへ入れてほしいとは一言も言っていない。話したのは、ブランジェムを飲めば黒薔薇病に効果があるということだけだ。
なのに彼は、迷うことなくこの装置へ入れた。
また、ちりっと違和感が走る。先ほどと同じものだった。
だが、その正体を考えている暇はない。今は目の前の命を救うことが先だ。
ベリルは立ち上がり、レティシアがいる方向を見つめながら口を開く。
「僕はレティシアを連れてくる。白魔法を展開してもらわなくては」
そう言って踵を返そうとする彼を、私は呼び止めた。
「その必要はありません」
ベリルの足が止まる。振り返った彼の濃紺の瞳に、訝しげな色が浮かんでいる。
「必要ない?」
「ええ」
私は最後の記号を書き終え、メモ帳を持ち上げた。
「先ほどレティシア様が使っていた魔法陣を、記憶を頼りに書き写しました」
ベリルの表情から、初めて余裕が消えた。その視線が、私の手元にある無数の記号へ吸い寄せられる。
「まさか白魔法を、君が……?」
私は頷く。そしてアーティファクトの前へ手をかざした。魔力を流し込むと、空中に魔法陣が浮かび上がる。
右指に魔力を込め、先ほど記憶した白魔法の術式を書き加えていった。
(思い出すのよ。細部まで!)
前世で、文字通り死ぬまで見つめてきたコードだ。
複雑に絡み合った処理を読み解き、異常の原因を見つけ、正しい形へ書き換える。
失敗すれば怒鳴られた。徹夜で直しても誰にも感謝されなかった。
あの地獄のような日々で身につけたものを、今こそ使う時だ。
(人の命がかかっているのよ!)
最後の文字を記し、私は魔法陣から手を離した。魔力を流すと、淡く光り始める。
しかしすぐに光が消えてしまう。
「駄目……!」
失敗だ。どこが間違っているのか、魔法陣へ素早く視線を走らせる。
もう一度術式を浮かび上がらせ、一部を書き直した。そして再び魔力を流す。
だが今度も光は途中で消えてしまう。
「ここで変数を渡しているから、この処理ではおかしいわ。だけど、ここを直したら……」
ぶつぶつと呟きながら術式を修正していく。消しては書き加え、魔力を流す。
光っては消える魔法陣を前に、原因を一つずつ潰していった。
周囲からは、今も絶え間なく悲鳴が聞こえてくる。焦りで指先が震えそうになる。
それでも、手を止めるわけにはいかなかった。
そして何度目かの修正を終えた時だった。
魔力を流しても光が消えない。魔法陣全体が安定し、強い光を放ち始める。
本日20:00頃にもう1話更新します!




