26. 機嫌がいいオーナー
「ベ、ベリル様……」
今だけはできれば会いたくなかった。こんな情けない顔をしているところを、彼に見られたくない。
私は慌てて視線を逸らした。
しかしベリルはその反応を別の意味に受け取ったらしい。すぐそばまで歩み寄ると、心配そうに私の顔を覗き込んだ。
「大丈夫? 顔が赤いけど、具合でも悪い?」
「い、いえ。何でもありませんわ」
自分でも驚くほど、声が細くなってしまった。さっき考えていたことが頭の中をぐるぐると回り、うまく言葉にならない。
そんな私を急かすことなく、ベリルは静かにじっと見つめてくる。私はそろりと紺色の瞳を見つめ返した。
普段は冗談めいたことを言ったり、掴みどころのない態度を取ったりするくせに、肝心な時には決してふざけない。
私が困っている時には、無理に事情を聞き出そうとはせず、迷わず手を差し伸べてくれる。
(この人なら……)
私は一度息を吸い、口を開いた。
「ベリル様。お願いがあるのです」
「お願い?」
ベリルが小首を傾げる。私の心臓がやけにうるさい。
一度息を呑み、意を決して口を開く。
「花の女神祭で、私のエスコート役をしていただけませんか?」
しばらくの間、沈黙が包んだ。生徒たちのざわめきが遠くから聞こえてくる。
ベリルは珍しく驚いたように目を見開いていた。その表情を見ていると、早まったかなと不安になってくる。私はおずおずと口を開いた。
「もしもうお相手が決まっているようでしたら──」
「いいよ」
私の言葉を遮るようにして、ベリルは言った。見るといつものような美しい笑みを浮かべている。
彼はさらに言葉を続けた。
「君に誘ってもらえるなんて思わなかった」
「突然申し訳ありません」
「ううん」
ベリルは首を少しだけ横に振り、薄い唇を動かした。
「嬉しい」
その顔がまるで子供のようで。その無邪気な顔を見ていると、なんだか私も言葉が出なくなってしまった。
*
ベリルをエスコートに誘った数日後。私は『黄昏の書庫』にやってきていた。
「オーナー、なんだかご機嫌ね?」
「……そうですか?」
オーナーは首を傾げた。
いつも胡散臭い笑みを浮かべてはいるが、今日はその表情がわずかにやわらかい。どことなく機嫌がよさそうに見える。
そんなオーナーを見るのは初めてだった。だが彼は追及を避けるように、すぐに話題を変えた。
「それで、本日のご相談とは?」
「花の女神祭のことよ」
その名を聞いた瞬間、オーナーの眉がぴくりと動いた。
一瞬の反応に疑問を抱いたものの、私はそのまま話を続ける。
「花の女神祭でも、香水とアーティファクトの宣伝をしたいの」
「なるほど、宣伝方法の案をお求めですか?」
「いいえ。そこはもう考えているわ」
私は用意してきた紙を、机の上でオーナーの方へ滑らせた。
紙に記した項目を指で示しながら、説明を始める。
「まず、香水の試供品を配る予定よ」
人を雇い、小さなガラス瓶へ入れた香水を祭の参加者へ配る。人によって香りが変わる香水だと、より多くの人に知ってもらうための試みだ。
私は指を一段下へ滑らせた。
「それから、香りを拡散するアーティファクトを置きたいの」
「設置場所は……中央広場ですか」
王宮近くには「アルディエラ中央広場」と呼ばれる大きな広場がある。
王都で大きな催しが開かれる際には、そこで式典や演目が披露されることが多い。花の女神を選ぶ投票も、その広場で行われる予定だった。
そこへ香りを拡散するアーティファクトを設置できれば、大勢の観客に香水の存在を知ってもらえる。
宣伝効果は申し分ない。ただ一つだけ問題があった。
「祭りの主催者にコネがないの。何とかできないかしら」
公爵令嬢として口を利くことも考えた。だが候補者である私が主催側へ働きかければ、不正を疑われかねない。
それに花の女神祭は王家主催の催しだ。レオンハルトへ頼む手もあるにはあるが、あの男に借りを作るなど御免だった。
というわけで、こういう時に最も頼りになるオーナーのもとへ来たのである。
「なるほど。かしこまりました」
オーナーは、驚くほどあっさりと引き受けた。
「ただし中央広場へ設置するなら、十分な範囲へ香りが届くか確認しておきたいですね。試作品はお持ちですか?」
「ええ。こちらに」
私は鞄から細長いガラス製のアーティファクトを取り出した。机の中央へ置き、装置へ魔力を流し込む。
ガラスの内側で香水が淡く輝き、細かな霧となって立ち上った。爽やかな花の香りが、ゆっくりと部屋へ広がっていく。
しかし部屋の隅まで届く前に、装置の光が不規則に揺らぎ始めた。
「あら……?」
出力を安定させようと、さらに魔力を流し込む。だが揺れは収まらない。
それどころか、ガラスの中の香水が小さく波打ち始めた。
「出力が足りないようですね」
オーナーが反対側からアーティファクトへ手を添えた。
次の瞬間、装置を通じて彼の魔力が流れ込んできた。私の魔力を押し退けることも、流れを乱すこともない。
冷たい水のように澄んでいて、不思議と心地よい魔力だった。
二つの魔力が重なると、揺れていた光はすぐに安定した。やわらかな花の香りが部屋の隅々まで満ちていく。
「これなら中央広場でも問題なさそうですね」
オーナーは満足そうに笑った。私は背筋を伸ばす。
問題はここからだ。王家主催の祭りへ口を利いてもらうのだ。
要求される対価は相当なものになるだろう。私は唾を飲み込み、おそるおそる尋ねた。
「……それで、私は何を差し出せばいいのかしら」
すると、オーナーはにやりと笑った。嫌な予感がする。
だが、返ってきた言葉は予想とは正反対のものだった。
「何もいりません」
「え?」
聞き間違いだろうか。私は目を瞬かせる。
だがオーナーは、にこにこと笑っているだけだった。
まさかあのオーナーが何の見返りも求めず、私の願いを叶えるとは思えない。確かめるようにもう一度尋ねる。
「ええと……主催者へ話を通してもらう対価が、何もいらないということ?」
「ええ」
思わず、オーナーの顔をまじまじと見つめた。
「もしかして、オーナーそっくりの別人だったりする?」
「いえいえ。エスメラルダ様がよくご存じのオーナーですよ」
「だってあの筋金入りの守銭奴が、何もいらないなんて……」
「全部聞こえていますよ?」
オーナーの突っ込みに、私ははっとして口元を手で押さえた。その瞬間、別の意味で驚く。
オーナーが、とてもやわらかな笑みを浮かべていたのだ。
いつもの人を食ったような笑みではない。心から満たされているような、穏やかな表情だった。
思わず一瞬だけ見惚れてしまう。
だが彼はすぐに、いつもの掴みどころのない笑みへ戻った。
「今日の私は、とても気分がいいので」
「……何か、いいことでもあったの?」
「ええ」
(一体、何があったのかしら)
気にはなった。だがその穏やかな笑みを見ていると、無理に聞き出すのは野暮な気がした。
私はそれ以上尋ねず、差し出された好意を素直に受け取ることにした。




