23. 失われた香りを、もう一度
思わず目を見開く。
侯爵は手袋を見つめたまま続けた。
「妻の声は覚えている。姿は肖像画に残っているし、文字を見たければ手紙を読めばいい」
そこで一度、言葉を切る。
「だが香りだけは、どうしても日に日に遠くなっていく」
独白のような声音だった。その奥には、今も癒えることのない深い喪失が滲んでいる。
彼が夫人を心から愛していたのだと、言葉にされなくても伝わってきた。
一方で現実的な不安もあった。
手袋は大切に保管されていたが、亡くなってから三年も経っている。残り香はかなり薄れているはずだ。
本当に彼が求めるものを再現できるのだろうか。
私が迷っていると、ミラが静かに口を開いた。
「こちらに触れてもよろしいでしょうか?」
「あぁ」
ミラはポケットから布地の手袋を取り出し、それをはめた。そして夫人の手袋を丁寧に持ち上げ、鼻元へ近づける。
部屋に緊張した沈黙が満ちた。
やがてミラは手袋を箱へ戻し、ルドラフをまっすぐ見据えた。
「奥様は、百合の香水をよくつけられていましたか?」
「……!」
ルドラフの目が揺れた。ミラは言葉を続ける。
「百合だけではないですね。少し柑橘の香りが混じっています。それからウッド系の香りも少し」
「……その通りだ」
驚きのあまり、ルドラフの声は掠れていた。
ミラはさらに手袋を見つめる。
「それとは別に、薬草の香りも残っています。かなり苦い香りです。晩年、薬を服用されていましたか?」
「あぁ」
ルドラフは、今度はゆっくりと頷いた。
「病が悪化してからは、何種類もの薬を飲んでいた」
「それから、蜂蜜の香りがわずかにあります。香水ではなく……おそらく髪油か、石鹸かと」
ルドラフは絶句したようにしばらく言葉を失っていた。
やがて、深く息を吐く。
「妻は、蜂蜜を使った髪油を好んでいた」
ミラは小さく頷いた。
夫人が生きていた頃に身につけていた様々な匂いが、今も手袋にはかすかに残っているらしい。
「奥様が生前お使いになっていたものは、まだ残っていますか?」
「ある」
ルドラフは即答した。
「妻の部屋も、ほとんど当時のまま残している。必要なら来てもらって構わない」
大切な夫人の部屋へ他人を入れる。本来なら、簡単に決断できることではないはずだ。
それでもルドラフは迷わなかった。
そこまでしてでも、香りを取り戻したいのだろう。
「可能であれば、衣服や化粧品、普段使っていた寝具なども確認させていただきたいです」
「分かった。好きなだけ調べてくれ」
ミラは静かに頭を下げた。
「できる限り、奥様の香りに近づけてみます」
「頼む」
その短い言葉には、切実な願いが込められていた。
私はルドラフへ契約内容を説明し、正式に契約書を交わした。
制作期間は半年。材料の収集や調査、試作にかかる費用として、先に半金を支払ってもらう。
その半金だけで香水千本分に近い金額だった。私は喉をごくりと飲み込み、その金額を見つめていた。
それから、亡き侯爵夫人の香りを再現する日々が始まった。
ミラは預かった手袋の香りを嗅ぎ取り、紙に必要な素材を次々と書き出していく。彼女の言葉をもとに香料が集められていった。
ルドラフの屋敷へ行った時は大変だった。街中へ入った瞬間、ミラの顔色が悪くなったのだ。
「大丈夫?」
「……はい」
そう答えたものの、声には力がない。
人や料理の匂いなどが一気に押し寄せるのだろう。馬車の中で今にも吐きそうになる彼女を、サラが必死にさすっていた。
何とか侯爵家へ到着したものの、屋敷の中にもさまざまな香りが満ちていた。ミラは一つずつ確かめようとしたが、顔は真っ青で今にも倒れそうだ。
「もういい。今日はここまでにしよう」
ルドラフが低い声で制する。
「ですが、まだ確認できていないものが……」
ミラは震える声で食い下がったが、ルドラフは首を横に振った。
「倒れられては香水どころではない。必要な品はこちらから運ばせる」
その声音には、彼なりの気遣いが込められていた。
実際、後日ルドラフは夫人の所持品をわざわざ私たちの別邸まで運んでくれた。さらに「体から発する香りは、普段口にしているものにも左右される」というミラの説明を聞くと、侯爵家の料理人まで連れてきてくれた。
「奥様は甘いものを好まれていましたか?」
「えぇ。ただ、病に伏されてからは食欲が落ちまして。蜂蜜を少し入れたミルクや、果物を煮たものをよくお出ししていました」
「香辛料の強いものは?」
「あまり好まれませんでした。ですが、冬になると生姜を使ったスープは召し上がっていました」
ミラは答えを聞くたびに、紙へ細かく書き込んでいく。
ルドラフも覚えている限りのことを話してくれた。
「妻は雨の日になると、よく窓を開けていた」
「雨がお好きだったのですか?」
「そうらしい。私は閉めろと言ったが、聞かなかったな」
そう語るルドラフの声は、どこか懐かしそうだった。
私たちは集めた情報を整理し、香料の配合を少しずつ変えていった。完成した試作品はルドラフにも確認してもらい、何が近く、何が違うのかを一つずつ記録する。
そして依頼を受けてから一ヶ月後、最初の試作品が完成した。
ルドラフは手首へ香水を吹きかけ、目を閉じた。
百合を基調に、柑橘や木、蜂蜜の香りを加えたものだ。さらにルドラフの記憶に残る香りへ近づけるため、闘病中に染みついた薬草の苦味もごくわずかに忍ばせている。
ミラが手袋から読み取った香りを、可能な限り再現したはずだ。
しばらく沈黙が続く。
やがてルドラフは目を開け、ゆっくり首を横に振った。
「……違う」
責める響きはなかったが、隠しきれない落胆が滲んでいた。
「かなり近いように思う。だが……何かが違う。妻の香りではない」
ルドラフは手首に残る香りを確かめながら、何とか違いを言葉にしようとする。
「妻に近いものは、確かにいくつも入っている。だが……何だか、まとまりがない」
「まとまりがない?」
「あぁ。一つ一つは妻を思い出させる。だが全てが合わさると、妻そのものからは遠ざかってしまうような……」
ルドラフは苦しげに眉を寄せた。
「すまない。これ以上うまく説明できん」
「いいえ、十分ですわ」
私は、これまで集めた素材と試作品を見比べる。
手袋や衣類に残っていた香り。夫人が好んで口にしていたもの。日頃使っていた香水や髪油。調べれば調べるほど新しい手がかりが見つかり、紙の上には素材の名前がびっしりと並んでいる。
そして私たちは判明した香りを一つ残らず再現しようと、可能な限り一つの瓶へ詰め込んでいた。
(もしかして私たち、全てを入れることにこだわりすぎていたんじゃ……)
要素が増えすぎれば、香り同士が互いに邪魔をする。
私は新しい紙を取り出し、テーブルへ広げた。
「優先順位をつけましょう」
前世でも要望された機能を全て詰め込んだ結果、かえって使いづらくなったことが何度もあった。徹夜で追加した機能に、「前のシンプルな方がよかった」と言われる。あれは地味に心を抉られた。
多ければいいというものではない。
大切なのは、何を核にして、何を補助として使うかだ。
「まず、侯爵様が一番強く覚えている香りを探しましょう」
私はルドラフへ視線を向けた。
「奥様を思い出す時、最初に浮かぶのはどんな場面ですか?」
ルドラフは考え込むように目を伏せた。
やがて、静かに答える。
「雨上がりの庭だ」
彼の灰色の瞳が、遠い過去を見るように揺れる。
「雨上がりの庭で、よく本を読んでいた。私が帰ると、いつも笑って手を振っていた」
以前ルドラフが話してくれた言葉が、頭の中に浮かんだ。
『妻は雨の日になると、よく窓を開けていた』
夫人が好んでいたのは、単なる雨の匂いではない。雨上がりの庭で過ごす時間そのものだ。
私はハッとする。必要なのは、闘病中だった夫人の香りをそのまま再現することじゃない。
ルドラフが最も幸福だった頃に記憶している、愛する妻の香りだ。
「ミラ」
「はい」
「雨上がりの庭を、香りの土台にしましょう」
ミラは少し考え、静かに頷いた。そしてルドラフに向き合い、真剣な顔立ちで言う。
「もう一度、作らせてください」
ルドラフはしばらく私たちを見つめていた。それから、ゆっくりと頷く。
「あぁ。頼む」
その日から試作の方向を大きく変えた。
夫人が好きだったという、百合を中心にすることは変わらない。そこに雨上がりの庭を思わせる青葉や、雨に濡れた木々の清涼な香りを重ねる。
配合を変えるたび、ミラは香りを確かめた。
「葉の香りが前に出すぎています」
「じゃあ、半分ほど減らしましょう」
「蜂蜜の香りは、もう少しだけ残した方がよさそうです」
私は結果を記録し、次の配合を決める。試作品の数は次々と増えていった。
近づいたと思えば、別の香りが強く出すぎる。
ルドラフの記憶にある「妻の香り」は、どこまでも繊細だった。
それでもミラは諦めなかった。香りを確かめ、少しずつ配合を変え、何度も作り直す。
ルドラフもそんな私たちに根気よく付き合ってくれた。
ミラの質問に丁寧に答える侯爵の姿を見ながら、私は思う。
(本当に奥様を愛していらっしゃったのね……)
これはお金を稼ぐために始めた事業だ。
だが彼の姿を見るうちに「どうか彼の求める香りに出会えますように」と願わずにはいられなかった。
──そして、三ヶ月が経った。
テーブルを挟んで、私とミラは緊張した面持ちで座っていた。
目の前には、細長い瓶が置かれている。
瓶には百合の意匠が刻まれ、蓋の部分は百合の花が咲き誇るような特注のデザインになっていた。
ルドラフはその瓶を手に取り、手の甲へそっと吹きかける。そして、鼻元へ近づけた。
次の瞬間、彼の顔が歪んだ。私はびくりとする。
(もしかして……失敗?)
そう思った直後、侯爵は震える声で言った。
「……やっと出会えた」
泣き笑いのような表情だった。
彼は、もう一度そっと香りを吸い込んだ。
まるで遠い日に置いてきた誰かの手を、ようやく取り戻したかのようだった。




