22. 最初の依頼人
「反対だ」
低い声だった。その瞬間、熱を帯びていた空気が一気に冷え込む。
先ほどまで意見を交わしていた貴族たちが口を閉ざし、一斉に声の主へ視線を向けた。
私はすぐに悟った。
(あの人が、この場の中心ね)
前世でも覚えがあった。
会議では必ずしも全員を納得させる必要はない。
本当に重要なのは、決裁権を持つ人物や、場の流れを決められる影響力の強い人物を納得させることだ。
そこを外せば、どれだけ賛同者がいても話は進まない。
(私の上司はそういう人たちを怒らせる天才だったわね……)
尻拭いに追われた記憶が蘇り、胃がキリキリ痛む。そろそろ破裂しそうだ。
男は静かに続けた。
「豊作なのは一部の領地だけだ。一律で増税すれば、潰れる領地が必ず出てくる」
「し、しかし、警備強化は至急必要で……」
男はワイングラスをテーブルへ戻した。
「豊作地域に限り、一年間の臨時税を設ける。国境に近い領主には、私兵を警備へ参加させる代わりに、一定の税制優遇を与えればいい」
先ほどまで一律増税へ傾いていた貴族たちが、互いに顔を見合わせる。単純に税を増やすのではなく、負担と利益を分散させる案らしい。
さらに男は淡々と付け加えた。
「加えて、教会にも救護所の設置と治癒師の派遣を求める」
一人の貴族が、わずかに眉を動かす。
「教会にも、ですか?」
「当然だ。慈善を掲げ、民から寄付を集めている以上、国境を守る役目も果たしてもらう」
穏やかな言葉だったが、その奥には明確な圧があった。
民を守るという名目で教会にも負担を負わせ、増しつつある影響力を牽制するつもりなのだろう。
「それならば……」
「確かに、特定の領地だけへ負担を押しつけるよりは現実的ですな」
「教会も相応の役目を果たすべきでしょう」
流れが一気に傾いた。私は男の顔をそっと見る。
黒に近い茶色の髪には、ところどころ白髪が混じっている。だが背筋は真っ直ぐ伸び、体から放たれる圧は若々しい。仕立ての良いスーツは彼の体にぴたりと沿い、一目で高級品だと分かった。
私のそばで父がぼそりと告げる。
「ルドラフ・トルアレン侯爵だ。敵には回すな」
「……はい」
父がそんな風に言うほどの人物だ。貴族界でも一目置かれているのだろう。
すると、ルドラフの切れ長のグレーの瞳がこちらを向いた。
「エドモン、来ていたのか」
「あぁ。娘を紹介しにな」
父に促され、私はルドラフのそばへ歩み寄る。
彼の瞳には、悪女を見るような嫌悪はなかった。ただ、こちらを見定めるような光がある。感情的に嫌われるよりも、かえって緊張した。
「そんな娘思いだったか?」
「前は手にも負えなかったが、最近は改めたからな」
実の父に手にも負えないと言われるエスメラルダ。だが事実なので何も言えない。
父は私が関わった香りのアーティファクトと、連発魔法陣のアーティファクトについて簡潔に説明した。
ルドラフの目に、わずかに興味が宿る。男性なら連発魔法陣の方に興味を示すかと思ったが、彼が尋ねたのは意外にも香りの方だった。
「香りの事業では、他に何をやっている?」
「お客様一人一人に合わせた、オーダーメイド香水をご用意しております」
私は即座に答えた。まさか、この強面の侯爵が香水に興味を持つとは思わなかった。
だが、商談の機会を前にして戸惑っている場合ではない。私は言葉を続ける。
「好みだけでなく、その方の雰囲気や、普段お召しになる色、思い出などを伺い、世界に一つだけの香りをお作りします」
「思い出も?」
ルドラフの声が、わずかに低くなった。私は緊張を悟られないようにしながら答える。
「再現できるだけの手がかりがあれば、可能です」
その瞬間、ルドラフの目が光った気がした。彼の表情には、何か希望を見つけたような色が浮かんでいた。
「その事業について、詳しく聞きたい」
周囲がざわめいた。父でさえわずかに目を見開いている。
おそらく、ルドラフが自ら他者の事業に興味を示すこと自体が珍しいのだろう。
(一体、どんな香りを望んでいるのかしら……?)
背中に一筋、冷たい汗が流れる。だが、ここはミラの嗅覚を信じるしかない。
この機会を逃すわけにはいかなかった。
「承知いたしました」
私は頷き、ルドラフと日時を打ち合わせた。
約束の日。
私とルドラフは、ミラたちが暮らす別邸を見上げた。
寒い冬は和らぎ、風の中には春の匂いが混じり始めている。屋敷の周囲には、ミラが育てているハーブや花が咲き誇り、陽の光を浴びて柔らかく揺れていた。
ルドラフは屋敷の周囲を見回し、静かに呟く。
「いいところだな」
「恐れ入ります」
「妻も花が好きだった。特に百合の香りを好んでいたな」
その言葉を発した時、ほんの少しだけ口調が和らいだ気がした。
私はちらりと彼を見上げるが、表情は変わらない。ただ、目の奥に小さな影が落ちたように見えた。
私は何も言わず、屋敷の中へ案内する。
玄関では緊張した面持ちのサラとミラが待っていた。
「トルアレン侯爵、ようこそいらっしゃいました」
「あぁ。君が香りを作ってくれるのか?」
「はい。ミラと申します」
ミラは丁寧に頭を下げ、貴賓室に向かって歩を進めた。
案内する途中、ミラはサラと短く言葉を交わす。彼女は頷き、キッチンの方へ歩いていった。
貴賓室へ到着し、部屋に入室する。ソファーに腰掛けると、ルドラフはミラを見つめた。
「だが、にわかには信じられんな。本当に私が求める香りを作れるのかね?」
当然の疑問だった。しかもオーダーメイド香水はまだ一件も依頼を受けたことがない。
その時、サラがハーブティーを持ってきた。
ミラはそれを指し示す。
「そちらを」
ルドラフはわずかに眉をひそめながらも、カップを手に取った。
一口飲んだあと、目を見開いた。
「……悪くないな」
低く呟く。ミラは淡々と口を開いた。
「トルアレン侯爵、昨晩から何も召し上がっていませんね?」
「何故それを……」
「体から、お酒とコーヒーの香りだけがします。それに胃が少し荒れています」
ミラはハーブティーへ視線を向けた。
「チコリの根やフェンネルなどで作ったハーブティーです。胃を整える効果があります。甘さは控えめなので、男性でも飲みやすいかと」
「これは驚いたな」
ルドラフはカップをソーサーに戻し、苦笑した。
そして私の方を見て、にやりと笑う。
「こんな武器を隠し持っていたとは」
「恐れ入ります」
私はにっこり微笑んだ。
体調を言い当てられたことで、ミラの力をある程度信じる気になったのだろう。
ルドラフは鞄から薄若色の箱を取り出した。
丁寧な手つきで蓋を開けると、中には生成色の手袋が収められていた。手首のあたりには、小さな草花の刺繍がある。
「妻が生前、大切にしていたものだ」
私は息を呑んだ。
今回の商談を受けるにあたり、ルドラフについては事前に調べていた。
彼は三年前、長い闘病の末に夫人を亡くしている。二人は仲睦まじい夫婦として知られ、社交界でもよく連れ立って姿を見せていたらしい。
妻を亡くして以降、ルドラフはほとんど女性を伴わず、仕事へ没頭するようになったという。
彼は手袋へ目を落としたまま静かに言った。
「妻と同じ香りの香水を作ってもらいたい」




