20. 世界に一つだけの香水
「体温や肌質、あとは天候などでも変わる特別な香水ですわ」
「へぇ。その人だけの香りってことだ」
そう言って、彼は自身の手首を鼻元へ近づけた。
ふっと表情がほころぶ。
「ラベンダーの香りがする。だけど甘すぎないのがいいね」
「男性でもつけられるように、控えめに調整しました」
「へぇ。君もつけてるの?」
「はい、もちろん」
私が頷くと、ベリルはじっとこちらを見つめた。深い夜のような濃紺の瞳に、胸が小さく跳ねる。
「どう、されたのですか」
なるべく平静を装って尋ねると、彼は甘く笑った。
「手に触れても?」
「ど、どうしてですか」
「だって、人によって香りが変わるんだろう? 宣伝のためには、自分でも違いを知っておかないと」
正論だった。ベリルの言っていることは正しい。そう分かっていても、心臓の音がうるさい。
前世では残業とキーボードに溺愛されていた私。目の前の美男子はあまりにも刺激が強すぎた。
(焦るのは仕方ないのよ! 不可抗力よ!!)
頭の中で必死に言い訳をしてから、私はそっと手首を差し出した。
指先の温度が伝わる。そのまま彼が顔を近づけた瞬間、私は思わず息を止めた。
心臓の音が聞こえませんように、そう祈ることしかできない。
ベリルは私の手首から立つ香りを確かめたあと、ちらりとこちらを見上げる。目が合った瞬間、彼はにこりと笑った。
「君の香りは、僕のより少し甘いんだね」
「そ、そうですか」
「僕の香りも、確かめてみる?」
「け、結構です!」
大声で拒否して、私は慌てて手を引っ込めた。ベリルは「残念」と言って、けらけらと愉快そうに笑う。
これ以上は、私の心臓が破裂しかねない。
私はバクバクと鳴る心臓を落ち着かせながら、目の前の男から視線を逸らした。
*
そして現在。
ミラが作った香水は、貴族たちの注目を存分に浴びていた。
(いい感じだわ!)
内心でほくそ笑む。
ベリルは香水の効果を説明しながら、私が渡した瓶を使い、貴族たちの手元へ香水を吹きかけていく。
「本当ですわ。少し違う香りがします」
「不思議……同じ香水とは思えません」
令嬢たちの間から、次々と驚きの声が上がる。
「そうでしょう?」
ベリルが微笑むと、令嬢たちは見惚れたように彼を見つめた。ハートマークが大量に飛んでいるのが見える。
顔や振る舞いが完璧なのはもちろん、弁も立つ。
(これ以上ない広告塔ね)
商品を渡して正解だったと満足していると、一人の令嬢がうっとりと頬を染めた。
「こんな香水を作られるなんて、流石ベリル様ですわ」
「いえ」
ベリルは穏やかに微笑み、私へ視線を向けた。
「この香水を作ったのは、エスメラルダ様ですよ」
「えっ?」
令嬢たちが一斉にこちらを見る。
驚きと困惑の入り混じった視線を受けながら、私は背筋を伸ばした。
「このたび、新しく香水事業を立ち上げましたの。今日は皆様に商品を知っていただきたくて、参加いたしました」
「エ、エスメラルダ様が事業を?」
「えぇ。優秀な仲間と共に作り上げていますわ」
できるだけ落ち着いた声で告げる。彼女たちの表情がわずかに変わった。
おそらく、彼女たちが思い描いていた悪女の姿と違って見えたのだろう。
「香りが変わる仕組みも、エスメラルダ様が?」
「発案は私ですが、香料の調合は専門の職人が行っていますの」
そう答えると、今度は別の令嬢から質問が飛んできた。一つ一つ、落ち着いて答えていく。すると質問は途切れるどころか、次々と増えていった。
周囲の表情からは警戒が薄れ、代わりに香水への好奇心を覗かせている。
手首の香りを確かめ合う者や、購入方法を尋ねる者まで現れ、輪の中は次第に熱を帯びていった。
その時、人垣の外から低い声が響く。
「いくら香り方が変わるとはいえ、結局は同じ香水だろう」
その時、私たちの輪にずかずかと入ってくる人物がいた。
レオンハルトだ。
私は眉をひそめそうになるのをどうにか堪える。彼は私とベリルを交互に見たあと、香水瓶を見下ろして鼻を鳴らした。
「同じ香水が、誰にでも似合うとは限らない。甘い香りが苦手な者もいるだろう」
言い方は気に入らないが、指摘そのものは間違っていなかった。
どれほど香り方が変わろうと、元になる香料は同じである。全ての人の好みに合うわけではない。
だが、それはすでに考えていた。むしろいい振りをしてくれたとすら思う。
私は唇の端を持ち上げた。
「えぇ。おっしゃる通りですわ」
素直に認めると、レオンハルトは意外そうに眉を動かした。
「ですので、新しい商品を準備しておりますの」
「新しい商品?」
レオンハルトが訝しげに復唱する。
私は少し声を大きくして、周囲にも聞こえるように宣言した。
「オーダーメイド香水ですわ!」
その瞬間、貴族たちの間にざわめきが広がった。
「注文に合わせて作るということ?」
「一人ずつ違う香水を?」
期待通りの反応に、私は笑みを深める。
「お好みの香りはもちろん、その方の雰囲気や、普段お召しになる色、過ごされる場所なども伺います」
令嬢たちの顔を見回しながら、ゆっくりと言葉を続けた。
「そして、その方に最もよく似合う、世界に一つだけの香水をお作りしますの」
「世界に一つだけ……」
一人の令嬢が、うっとりと呟く。特別であることを好む貴族に、この言葉が響かないはずがない。
周囲の反応に手応えを感じていると、レオンハルトは鼻で笑った。
「そんなものが作れるわけがないだろう!」
「信頼している職人がいますもの」
落ち着いて答えたものの、レオンハルトは納得しなかった。
「一人一人に合わせて香りを変えるなど、現実的ではない」
「ですが──」
「そもそも、そんな技術が本当にあるのか?」
こちらの言葉を遮り、できるはずがないと繰り返してくる。
(めんどくさいわね!)
火魔法をぶっ放して黙らせてやろうかと一瞬考えた。だが相手は王太子だ。できるはずもない。
どうやってこの場を収めようかと悩んだ時、隣から楽しげな声が響いた。
「へぇ」
レオンハルトの言葉を遮るように、ベリルの相槌が響いた。
彼は私の手を取り、興味深そうに目を細める。
「では、最初の客は僕ということで」
「ベリル様が?」
「うん」
ベリルは指先を軽く包み込むと、甘く微笑む。
「僕に似合う香りを作ってほしいな」
周囲の令嬢たちから、悲鳴のような歓声が上がった。
私は一瞬だけ言葉に詰まる。ただ香水を注文されただけなのに、美しい笑顔と甘い声を向けられた途端、思考が完全に停止してしまう。
「……もちろんですわ」
動揺を悟られないよう、私は堂々と顎を上げる。
「必ず、ベリル様にふさわしい香りをお作りします」
「楽しみにしているよ」
ベリルが満足そうに笑った途端、周囲から次々と声が上がった。
「わ、私もお願いしたいですわ!」
「わたくしにも作っていただけますか?」
「予約はどこで受け付けていますの?」
「夫への贈り物にもできますかしら?」
質問と注文が一斉に押し寄せる。
私は笑みを崩さないまま、一人ずつ丁寧に答えていった。
(宣伝、大成功ね!)
ふと横へ目を向ける。
先ほどまで商品を否定していたレオンハルトは、注文を求める貴族たちの輪から押し出され、苦々しい顔で立ち尽くしていた。
散々好き勝手に言われたものの、彼のおかげでオーダーメイド香水まで宣伝できた。
(意外と役に立つじゃない!)
私は上機嫌で、次の予約希望者へ笑顔を向けた。
レオンハルトくん・・・




