第八話 我、追い込み中 (10/6書き直し)
8月30日。
夏休みも終わりに近づいたというのに、外では未だ強い日差しが照りつけ、窓越しに蝉の声が絶え間なく聞こえてくる。
だが、今のマオにとって、そんなことはどうでもよかった。何故なら――。
(我、追い込み中)
机の上には、夏休みの宿題が積み重なっていた。問題集を開けば、まだ白いページが目立つ。
今まできちんと進めていれば、こんなことにはなっていない。それはマオ自身もよくわかっていた。
夏休みはまだ長い。明日でもいい。明後日でもいい。まだ慌てるような時ではない。
そう思い続けた結果が、今である。
(毎年のこととはいえ……時の流れとは、恐ろしいものよな)
もちろん、マオは勉強が苦手なわけではない。かつて魔王として大国を治め、山積みの書類に目を通し、様々な問題を処理してきた。小学校の勉強程度なら、問題を理解して答えること自体は難しくない。
ただし、社会だけは少し勝手が違った。都道府県。地図記号。日本の歴史。この世界で暮らしてきた者なら自然と知っていることでも、異世界から転生したマオにとっては、一から覚えなければならない知識も多い。
(故に少し苦戦しておるだけだ。決して、宿題を後回しにしすぎて焦っておるわけではない。異世界出身だから仕方がないしの)
……多分。
自分にそう言い聞かせ、マオは大きく息を吐いた。そして、机の上に広がる宿題を睨む。
すべて今日中に終わらせる。いや。終わらせなければならない。そして明日は、夏休み最後の一日を何も気にせずのんびり過ごすのだ。
そう決意したというのに――。
三階にあるマオの自室。そのベッドには、一人の少女が寝転がっていた。枕元には漫画が数冊積まれ、本人はその一冊を実に楽しそうに読んでいる。
「……ユウよ。何故、我の部屋におる?」
「え?漫画読みに」
「…………」
マオが机に向かって問題集と格闘するすぐ後ろで、ユウは完全にくつろいでいた。遠慮という言葉は、どこかに置いてきたらしい。もっとも、幼い頃から頻繁に天神家に遊びに来ているため、本人にとっては第二の実家に近い感覚なのかもしれない。
天神家の地下には、資料保管室を兼ねた書庫がある。そこに収められている大量の漫画は、今も年々増え続けていた。由紀が漫画家であることも理由の一つだが、博もかなりの漫画好きだ。二人が集めた作品に加え、仕事の資料として購入した本もあり、新旧様々な漫画や資料が棚を埋め尽くしている。
そして、マオもすっかりその魅力に取り憑かれた一人だった。たまに書庫に籠もり、一日中漫画を読んでしまうことさえある。
この世界ではスマホやタブレットでも漫画を読めるが、マオは紙の本も気に入っていた。手に持った時の感触。ページをめくる感覚。一冊読み終え、本棚に戻す時の満足感。電子書籍とは違う良さがある。
場所を取るという欠点はあるものの、今はどうでもいい。問題は一つ。
「借りて帰ればよかろう。何故、我の部屋で読む?」
「持って帰るの面倒だし。それに、マオの宿題の監視」
「我の監視?」
マオの眉が寄った。
(監視など必要なかろう。我、魔王ぞ?かつて一国を率いた王である。我が身を律することくらいできるわ)
そんな顔をしていたのだろう。ユウは漫画から目を離さないまま、まるで考えを読んだかのように続けた。
「だってマオ、毎年宿題がギリギリすぎるのよ。おばさんも心配してたよ。地頭はいいんだから、早く終わらせちゃえば楽なのに。いつも先延ばしにするんだから」
「…………」
痛いところを正確に突かれた。
夏休みに入ってから、由紀にも何度か聞かれている。
『マオ。宿題、大丈夫?』
その度に、マオは胸を張って答えていた。
『母上よ。まだ問題ではない。時間の猶予はある』
あの頃は、本当に余裕だと思っていた。
(過去の我よ。何故、あれほど自信満々だった?)
今すぐ目の前に引きずり出し、問い詰めてやりたい。夏休みは、思っているほど長くないぞ、と。
元の世界にいた頃なら、こうなる前にモロイが動いていた。
『では、まずこちらの書類から。後回しにすると困りますので、今日中にお願いします』
マオが仕事を後回しにしようとすれば、逃げ道を塞ぐ。
『おや、どちらへ行かれるのですか?そちらは窓ですよ。まさか、飛んで逃げるおつもりではありませんよね?では、席に戻ってください』
それでも逃げようとすれば、先回り。そして、本当に逃げれば――。
『魔王様が逃げた!皆、連れ戻せ!』
城中を巻き込んででも、マオを机に戻していた。
(今思えば、すべて我のため……だったのか?)
そこは少し疑問が残る。ただ、一つだけ確かなことがある。モロイがいた頃、ここまで仕事を溜め込んだまま放置することは難しかった。
そして、今。
その役目を引き継いでいるのが、ベッドで漫画を読んでいる元勇者。見張り方は随分と違うが、こちらもマオを逃がす気はないらしい。
マオは諦めて鉛筆を握り直した。
ところが、しばらくすると新たな問題が浮上した。ユウがいると――気が散る。
時折聞こえる笑い声。ページをめくる音。身体の向きを変える度、僅かに沈むベッド。
何を読んでいるのか。何がそんなに面白いのか。非常に気になる。
しかも、たまにこちらを見ている。本当に監視していた。
「ユウよ」
「何?」
「気が散るのだが?」
「そう」
「…………」
それだけだった。ユウは何事もなかったように漫画に視線を戻す。
(すがすがしいほど気にしておらぬな)
元魔王。現在、元勇者に監視されながら夏休みの宿題中。
(何故こうなった?)
考えても仕方がない。マオは小さく息を吐き、再び問題集に向き直った。
算数。国語。社会。理科。一つずつ、確実に片づけていく。
途中、何度もユウの笑い声が気になった。何を読んでいるのか聞きたい。一冊だけ、自分も読みたい。
だが――耐える。
(ここで一冊でも手に取れば終わる)
自分の性格は、自分が一番よく知っている。一冊だけ。少しだけ。休憩だから。そう言って読み始め、気づけば数時間が消える。何度も経験してきたことだ。そして、その度に、元の世界ではモロイに、この世界ではユウに小言を言われてきた。
(漫画……恐ろしい文化よな)
それでも読まずにはいられない。一度、本当に魅了魔法でもかかっているのではないかと疑ったほどだ。無論、どれだけ確かめても、魔法が働いているような反応はなかった。
(魔法でもないのに、これほど多くの人を惹きつけるとは……なお恐ろしい)
だが、今だけは我慢。マオは鉛筆を握り直し、ひたすら宿題を片づけていった。
そして――夕方。
「終わった……」
最後の問題を書き終え、マオは鉛筆を机に置いた。長く息を吐きながら、背もたれに身体を預ける。机に広げた問題集を、一つずつ確認していった。
算数。終了。国語。終了。社会。終了。理科。終了。
その他の宿題も問題なし。ようやく肩の力が抜ける。
(ふふふ……どうだ、ユウ。我もやればできるのだ。魔王を侮るでない)
達成感に満ちた顔で振り返った。
「…………」
返事はない。ユウはベッドの上で爆睡していた。胸の上には、読みかけの漫画。本人は実に気持ちよさそうな寝顔を浮かべている。
(道理で途中から静かになったわけだ)
監視役としてどうなのかはわからない。だが、少なくとも途中まではマオを机に縛りつける役目を果たしたのだろう。
(まったく、自由な奴よな)
何はともあれ、宿題は終わった。これで残る夏休みは、何も気にせず過ごせる。
マオは満足そうに机を片づけると、眠っているユウの傍らに腰を下ろした。胸の上から落ちかけていた漫画をそっと取り上げる。幸せそうに眠る幼馴染の顔を眺め、マオの口元が僅かに緩んだ。
(まあ、監視ご苦労であった)
そして、夏休みが明けた。
教室では、生徒たちが次々と宿題を提出している。
当然、マオもその一人。抱えてきた宿題を、堂々と担任に差し出した。
(ふふふ。我、完璧!)
8月30日の壮絶な追い込み。漫画という強大な誘惑にも屈せず、見事すべての宿題を終わらせた。もう何も恐れるものはない。
満足しながら席に戻ろうとした、その時だった。
「天神」
「む?」
呼び止められ、マオが振り返る。担任はこちらを見ながら、何かを待つように手を差し出していた。
「自由研究は?」
「…………」
マオの笑みが固まった。
自由研究。その言葉が、頭の中で何度も繰り返される。やった記憶がない。そもそも、手をつけた記憶すらなかった。
昨日。
ユウがダンジョンについてまとめた自由研究を、嬉しそうに見せてきた。それを見ながら、マオは何と思ったか。
『随分とよくまとまっておるな』
以上。
自分の自由研究については、一切思い出さなかった。
(我の分……忘れておった)
差し出された担任の手が、やけに重く見える。
「天神?」
もう誤魔化しようがない。マオは背筋を伸ばした。そして――堂々と頭を下げる。
「忘れておった。申し訳ない」
一瞬の静寂。
その直後、教室のあちこちから笑い声が漏れた。
ユウは困ったように笑い、担任も呆れたような苦笑を浮かべている。
マオは頭を上げながら、静かに目を閉じた。
(まさか我がな……)
夏休みの宿題をすべて片づけたと思い込み、堂々と提出した元魔王。その結末が、これである。
(魔王として、情けなし……)




