第七話 我、親孝行 (10/6書き直し)
翌日。
昨日、ダンジョンについて話を聞いたばかりだというのに、博は再び海外に旅立っていった。今度の行き先はアメリカ。詳しい仕事内容までは教えてもらえなかったが、新たなダンジョンが確認され、その関係で向かうらしい。
久しぶりに休めたと思った翌日には、もう海外出張。
(父上、忙しいよな。身体には気をつけるのだぞ)
「マオ!これお願い!」
「うむ。任されよ、母上」
玄関で父を見送ったマオが現在いるのは、自宅二階にある母・由紀の仕事部屋。ちょっとした親孝行の真っ最中だった。
現代の漫画制作ではデジタルが主流になりつつあるが、由紀はデジタル技術を使いながらも、手描きの工程を大切にしている。
マオには、その細かな違いまではわからない。それでも、紙に直接描くことには漫画家なりの理由とこだわりがあるらしく、今日も紙の原稿を仕上げている真っ最中だった。
そして、マオに任されたのは、ペン入れを終えた原稿の消しゴムかけ。右手には、使い込まれて角の丸くなった消しゴム。目の前には、下描きの線がまだ残る原稿。その線を、原稿を傷つけないよう慎重に消していく。
一見すると簡単な仕事に見えるが、実際にやってみると意外と神経を使う。強く擦れば、紙を傷めたり、破いたりするかもしれない。雑に扱えば、原稿に皺を作る可能性もある。何より、目の前にあるのは由紀たちが長い時間をかけて描き上げたものだ。
(我、責任重大)
魔王だった頃には、国に関わる重要書類へ何度も目を通してきた。だが、それとはまた違う、失敗の許されない緊張感がこの原稿にはあった。
マオは慎重に消しゴムを動かしながら、時折原稿に視線を落とす。
紙の上にあるのは、ただの線であるはずなのに。その線で描かれた人物や風景は今にも動き出し、そのまま物語を紡ぎ始めそうに見える。表情を見れば感情が伝わり、背景を眺めれば、その場所の空気まで想像できた。
(母上。そなたはやはり凄いの。我には出来ぬ)
そんなことを考えながら、偉大な母の原稿に向き合っていると――。
何かが床に倒れる音とともに、由紀の声が飛んできた。
「マオ!大変!」
「む?」
何事かと視線を巡らせれば、アシスタントの一人が力なく床に倒れている。
だが、マオが本当に驚いたのはそこではなかった。周囲のアシスタントたちは、まるで倒れる者が出ることなど珍しくないと言わんばかりに、ほとんど目も向けず作業を続けている。
(慣れておるな。いや、慣れては駄目であろう)
「石田さんが倒れた!すぐに栄養ドリンクを飲ませて!」
「あいわかった!」
マオは即座に消しゴムを置いて立ち上がると、仕事部屋に直結する給湯室に駆け込んだ。冷蔵庫から常備されている栄養ドリンクを一本取り出し、床に倒れている石田のもとに戻る。
(石田殿!?)
今にもそのまま眠ってしまいそうな石田の傍に膝をつき、マオは瓶の蓋を開けた。
「石田殿、気を確かにせよ。これを飲むのだ!」
「も、もう……無理……」
「ならぬ!母上から飲ませよとの命令を受けておる!」
マオが肩を支えながら瓶を差し出すと、石田は震える手で受け取り、少しずつ中身を飲んでいく。まるで燃料を補給するかのように、瓶の中身が減っていき――。
「ふっか~~~つ!」
石田が勢いよく身体を起こした。倒れていた椅子を立て直し、そのまま何事もなかったように机に向かう。
「おお……」
マオの目が僅かに見開かれた。
蘇生魔法でも回復魔法でもない。ただの栄養ドリンクで復活した石田と、空になった瓶を交互に見る。
(栄養ドリンク、凄い。まるで回復魔法でも使ったようではないか)
感心しながら、マオは空になった瓶を部屋の隅にある専用のゴミ箱に捨てた。席に戻ろうとしたところで、ふと石田に目を向ける。
「…………」
口では復活したと言い、手も確かに動いている。しかし――その言葉とは裏腹に、目からは完全に光が消えていた。
(石田殿。我が言うのも何だが……本当に大丈夫なのか?)
「先生……」
別の机で作業していた小野坂が、疲れ切った顔を由紀に向けた。アシスタントたちをまとめ、普段なら周囲に指示を出しながら手際よく仕事を進めている人物だ。だが、今はその頼もしさにも疲労の色が滲んでいる。
「先生、連載を抱えすぎです。一度、何作品か休載することも考えて、少し休んだ方がいいですよ」
その言葉にマオも思わず頷き、仕事部屋を見回した。
中村は手を動かしているものの、今にも机に突っ伏しそうになっている。
杉田は虚ろな目のまま、必死にペンを走らせていた。
石田は今しがた一度力尽きたばかり。
諏訪部はモニターを見つめながら乾いた笑いを漏らし、それでも液タブの上では手を止めていない。
森田と安元もパソコンに向かっているが、一人は頭をふらふらと揺らし、もう一人は焦点の合わない目で画面を見つめていた。
そして、神谷は――。物言わぬ置物のように印刷機の前で固まり、吐き出されてくる印刷物をただじっと見つめている。
由紀を支える八名のアシスタント。その誰もが限界寸前――いや。
すでに限界だった。
(死屍累々ではないか)
元の世界で見た過酷な戦場ですら、もう少し目に光があった気がする。
そんな中でも、由紀は誰よりも勢いよく手を動かしていた。だが、よく見れば決して元気なわけではない。由紀もアシスタントたちと同じように疲れ切り、もはや気力だけで身体を動かしているように見えた。顔には濃い疲労が浮かび、目の下には薄い隈。髪もすっかり乱れている。
それでも、その目だけは死んでいない。
由紀は握っていたペンを置くと、拳を握り締めて力強く立ち上がった。
「ダメよ」
誰よりも疲れているはずなのに、その声には力があった。
「私たちの漫画を楽しみに待ってくれている読者がいるの。だから、私は頑張る!」
マオの目が輝く。
(おお!あっぱれな心意気!)
どれほど疲れていても、読者のために最後まで仕事をやり遂げようとする母の姿。その覚悟が、マオには誇らしく見えた。
(流石は我が母上!素晴らしき母よ。モロイが聞けば感動したであろう……)
もっとも、その後に続くであろうモロイの言葉まで、簡単に想像できてしまった。
『流石はマオ様の母君!素晴らしき心意気。このモロイ、感涙いたしました。私めも心を鬼にして、今後はマオ様に仕事をしていただく所存です』
(……やはり聞かせるのはやめておこう)
だが、そう感心してばかりもいられない。マオは改めて仕事部屋の様子を見回した。
アシスタントたちは依然として瀕死。
先ほど威勢よく立ち上がった由紀ですら、椅子に腰を下ろした途端、再び疲労に襲われたのか手の動きが鈍くなっていた。
(母上。心意気は立派だが、死にかけておる。さて、どうしたものか)
まだ誰も死んではいない。生きてはいるのだが、見た目以上にかなり危うい状態だった。先ほどまで辛うじて作業を続けていた者の中にも、ペンを握ったまま固まる者まで出始めていた。
(致し方なし)
マオはそっと周囲を窺った。由紀はすでに原稿に向き直っている。アシスタントたちも、それぞれの作業で精一杯。誰もこちらを見ていない。
(仕方あるまい。少しだけぞ)
マオは給湯室に入るふりをして身を隠すと、仕事部屋にいる全員に意識を向けた。気づかれないよう、ほんの僅かに魔力を練る。そして、疲れ果てている由紀とアシスタントたちに、ごく弱い回復魔法をかけた。
本格的に回復させることもできる。だが、マオは魔法を使えることを隠している。先ほどまで限界だった人間が突然元気いっぱいになれば、流石に不自然だ。疲労感が少し和らぐ程度なら、一時的に調子が戻ったと思うくらいで、誰も深く気にしないだろう。
(これで少しは楽になるはず)
やがて、その効果が少しずつ表れ始めた。
「……あれ?」
最初に声を上げたのは森田だった。先ほどまでパソコンと額が触れそうなほど背中を丸めていたが、身体の調子を確かめるようにゆっくりと起き上がる。
「なんか、さっきより身体が軽い気がする」
「ああ……俺も。少しだけ楽になったような……」
他のアシスタントたちも、不思議そうに肩を回したり、腕を動かしたりし始めた。
その様子を確認し、マオは何食わぬ顔で自分の席に戻る。そして、僅かに胸を張った。
(ふっ。当然だ。我の回復魔法だからな)
出力はかなり抑えている。それでも、今の疲労を少し和らげる程度なら十分だった。
その時。
「そうよ!」
突然、由紀が再び勢いよく立ち上がった。
「これが、私たちの漫画を心待ちにしてくれている読者の力よ!そのエールが今、私たちに届いたのよ!」
「…………」
マオの動きが止まった。
(母上。違う……我のおかげであるぞ)
だが、由紀の言葉はアシスタントたちの気力まで蘇らせていった。
「そうか……読者が待ってくれている……」
「俺たち、まだ頑張れる!」
「よし!やるぞ!」
その言葉に次々と声が上がり、先ほどまで死屍累々だった仕事場に再び活気が戻る。
原稿用紙をめくる音。原稿や液タブの上をペンが走る音。キーボードを叩く指にも、先ほどまでとは違う力が戻っていた。誰もが再び、自分の作業に没頭していく。
その中心で、マオだけが何とも言えない顔をしていた。
(我の力ぞ。読者ではなく、我の回復魔法ぞ……そう言いたいが……)
マオはしばらく由紀たちを眺めた後、僅かに頬を緩めた。
考えてみれば、魔法をかけたマオ自身も由紀の漫画を読んでいる。今描いている新しい話を楽しみに待つ、読者の一人だ。ならば――。
(まあ、読者の力というのも完全な間違いではない……のか?)
そう考え、細かいことは気にしないことにした。マオも再び消しゴムを手に取る。原稿を傷つけないよう、慎重に。少しずつ、丁寧に。ここで失敗すれば、由紀たちが積み重ねてきた努力を台無しにしてしまう。
仕事部屋には再び、誰もが原稿に集中する時間が流れ始めた。
それから、しばらくして――。
「もうダメ……」
弱々しい声が聞こえた直後、椅子から身体が崩れ落ちる音がした。
マオが顔を上げる。また石田が倒れていた。
「…………」
(石田殿。流石に早くないか?)
栄養ドリンクを飲ませ、回復魔法まで使った。それなのに、まだ一時間も経っていない。
「マオ!栄養ドリンク追加!」
「う、うむ!」
間髪入れず、由紀の指示が飛んできた。マオは反射的に返事をしたものの、給湯室に視線を向けて僅かに顔をしかめる。
(母上。流石に飲ませすぎは身体に悪くないか?)
しかし、今の由紀に逆らえるような空気ではない。締め切りを目前にした漫画家。その迫力には、妙な意味で魔王に通じるものがあった。
(すまぬ、石田殿)
マオは再び給湯室から栄養ドリンクを一本取り出し、石田のもとに戻った。
「石田殿。飲むのだ」
「もう……いらない……」
「我もそう思う。だが、母上の命令なのだ」
「うぅ……」
(本当にすまぬ)
そんなやり取りを繰り返しながら、由紀とアシスタントたち、そしてマオによる締め切りとの戦いは続いた。
そして――。
「終わった……」
誰かが呟いた。
ようやく、締め切りの迫っていた数本分の原稿が完成した。だが、歓声は上がらない。喜ぶための体力すら残っていなかった。
仕事部屋に残されたのは、完成した原稿と、完全に力尽きた者たち。
椅子に座ったまま机に伏している者。床に座り込み、壁に身体を預けたまま動かない者。机に突っ伏し、そのまま眠っている者。八名のアシスタントたちは、それぞれの場所で完全に力尽きていた。
(皆、死んでおるように見えるな)
もちろん、生きている。耳を澄ませば、静かな寝息も聞こえてくる。ただ、誰一人として動かないだけだった。
その時、仕事部屋の扉が静かに開いた。
「先生、締め切りの原稿を回収しに来ました……って、これは」
「おお、大久保殿。久しぶりだの」
入ってきたのは、由紀が連載している作品の一つを担当する編集者、大久保だった。仕事部屋の惨状を目にした途端、その表情が僅かに引きつる。
「マオちゃん。これ……いつもの?」
「うむ。仕事を抱えすぎた反動ぞ。安心せよ。大久保殿の分も、きちんと完成しておる」
マオは机の上にまとめられていた原稿を確認し、大久保が担当する分を揃えて手渡した。
「ありがとう。先生には、無理なら休載してもいいって何度も言ってるんだけどね」
「まあ、母上だからの。むしろ無理にでも休ませた方がよいかもしれぬ」
「……編集長にも相談しておくよ。先生にはよろしく伝えておいて」
「あいわかった」
原稿を受け取った大久保は、もう一度力尽きた由紀たちを見回した後、静かに仕事部屋を後にした。
大久保を見送ったマオは、改めて仕事部屋を見回し、小さく息を吐いた。
流石に、十歳の少女が八人のアシスタントを休憩室や寝室まで運んで回るわけにはいかない。本気を出せば不可能ではない。だが、そんなことをすれば、自分の身体能力が明らかに普通ではないと気づかれてしまう。まだ、それは避けたかった。
「マオ……」
弱々しい声に振り返る。由紀が机に肘をついたまま、辛うじてこちらを見ていた。
「今日はありがとう。後は、いつも通り……誰も起こさないでね。それと、残りの原稿も……他の担当さんに……」
「うむ。連絡して、取りに来てもらおう。それと、明日の夕方までは誰も起こさぬ」
「お願い……」
それだけ言うと、由紀も机に突っ伏した。数秒もしないうちに、静かな寝息が聞こえてくる。
マオはその姿をしばらく眺めた。
(母上、お疲れ様)
先ほどまで響いていたペンやキーボードの音が嘘のように、仕事部屋は静まり返っている。聞こえるのは、由紀とアシスタントたちの寝息だけ。
マオは残っている原稿を一か所にまとめると、照明を少し落とした。
足音を立てないよう静かに仕事部屋を出て、そのまま三階にある自室へ戻る。扉を閉めたところで、ようやく小さく息を吐いた。
消しゴムかけをしていただけとはいえ、長時間集中し続けるのは思っていた以上に疲れる。ベッドを目にした途端、身体から力が抜けそうになった。
だが、その前に。マオは一階下にある仕事部屋の方角に意識を向けた。
(もう少しだけ、しておくか)
静かに魔力を練る。眠っている由紀とアシスタントたちに届くよう、ごく弱い回復魔法をかけた。
明日起きた時、少しだけ身体が楽になっている程度。それくらいなら、不自然に思われることもないだろう。
魔法を終え、マオは満足そうに頷く。
(うむ。これでよし)
由紀たちは、今日はもう十分に働いた。後はゆっくり休めばいい。
ただし、一つだけ。マオには母に強く願いたいことがあった。
(母上。次は、もう少し仕事を減らしてくれ)
それだけは、本気で願う。元魔王から見ても、この仕事場は少々過酷すぎた。
マオはスマホを手に取り、連絡先を開く。まだ、回収を待っている原稿が残っている。
(さて。残りの原稿も取りに来てもらうかの)




