第五話 我、プールに
更衣室には、大勢の女性がおる。
壁際にはロッカーがずらりと並び、その前では皆が荷物を広げ、いそいそと水着に着替えておるな。
床には濡れた足跡がいくつも残り、プールへ続く扉の向こうからは独特の匂いと楽しげな声が絶え間なく届いてきておるわ。
皆、早くプールへ入りたいのだろう。
暑いからな。
我も同じだ。
ここへ来るまでに、どれほど暑い思いをしたことか。
日差しは容赦なく照りつけるし、ユウは暑いと言いながら我へくっついてくるし……。
思い出しただけでも、また暑くなってきた気がする。
「はい。これ、マオの水着」
「うむ。ありがと……う?」
ユウから渡された水着を受け取り、我は首を傾げた。
何だ?
この肌触りは?
指先で軽く撫でてみるが、我の知るスクール水着とはまるで違う。
薄く柔らかいのに、妙にしっかりとしておるな。
引っ張ってみても、簡単には形が崩れぬ。
それどころか、手を離せばすぐに元の形へ戻った。
うむ?
丈夫そうではあるが、これほど薄くて大丈夫なのか?
いや。
待て。
それよりも……。
「何だ、これは?」
「ん?」
「何やら手紙まで添えられておるぞ」
水着と一緒に渡された袋の中には、小さく折り畳まれた紙が入っていた。
…………。
先ほどから感じていた嫌な予感が、さらに強くなる。
我が長年培ってきた魔王としての勘が、何かを訴えておる。
まあ、読むしかあるまい。
『マオちゃんへ。我が社の子供用ラッシュガードセットです。ダンジョン素材を使用しているよ。やったね!』
…………。
愛殿よ。
何が「やったね!」なのかはわからぬが……。
ダンジョン素材とな?
我は手紙からラッシュガードへ視線を移し、改めて生地を指で撫でた。
そういえば、ダンジョンから持ち帰られた素材は、衣服や装飾品など、様々なものに使われていると学校でも習ったな。
スマホで調べた時にも、ダンジョン由来の素材が少しずつ人々の生活へ入り始めていることは知った。
だが、実際に身につけるのは初めてだ。
見たところ、普通の衣服と大きな違いがあるようには思えぬ。
しかし、触ってみればわかる。
軽い。
それでいて、生地はしっかりしておる。
うむ。
興味が湧いてきた。
我は再び手紙へ視線を戻した。
『水着としても使えるから、試してみてね。後で感想を聞かせてもらえたら、おばさん嬉しいな。PS、できたら先生に特別デザインをお願いできないか聞いてみてくれたら、さらにおばさん嬉しいな』
…………。
これか!
我の嫌な予感の正体は!
公私混同!
これは、我を使って母上へ仕事の話を持っていこうとしておるな?
しかも、直接頼むのではなく、我を経由することで話を通りやすくするつもりか!
流石、やり手のキャリアウーマン。
隙がないのう。
したたかよな。
だが、その姿勢。
我、嫌いじゃない!
使えるものは使い、無駄なく利益を得る。
うむ。
愛殿。
なかなかの人物よ。
「うむ。ラッシュガードか」
「そうなの。水着としても使えて、肌もある程度隠せるから、日焼けも防げるって言ってた」
日焼け。
その言葉を聞いた瞬間、我の中に苦い記憶が蘇った。
これも、我がこの世界へ来て驚いたことの一つだな。
あれも同じように日差しの強い夏の日であった。
母上が買い物へ出かけるというので、我もついて行ったのだ。
無論、目的はアイス。
我、アイス欲しさについて行った。
別に何か変わったことをしたわけではない。
ただ母上と買い物へ出かけ、アイスを食べ、家へ帰った。
それだけだった。
だというのに、家へ帰って鏡を見た我、驚愕!
肌の色が違う。
少し黒くなっておる。
…………。
最初は気のせいだと思った。
いや。
気のせいだと信じた。
だが、その翌日。
「マオちゃん、遊ぼ!」
ユウに半ば無理やり外へ連れ出され、散々遊んでから家へ帰った我は、再び鏡の前に立った。
そして我、驚愕!
さらに黒くなっておる!
いやいやいや。
あの時の我は、本気で焦った。
何か恐ろしい呪いでも受けたのかと思ったからな。
しかも、いつ、誰にかけられたものなのかもわからぬ。
我、恐怖。
あの時は部屋へ籠もり、何度も何度も解呪魔法をかけたものよ。
まずは弱いもの。
治らぬ。
ならばと、今度はさらに強い解呪まで試した。
……それでも治らなかったがな。
我、焦る。
もしかすると、我でも解けぬほど強力な呪いなのではないか。
あの時、我は本気で死を覚悟した。
もう一度言おう。
我、魔王。
そんな我が、日焼けを前にして死を覚悟したのだ。
…………。
そして。
少し泣いた。
いや。
少しだけだぞ?
本当に少しだけだからな?
我、魔王だから。
…………。
泣いたことは秘密だ。
後に、それが日焼けという現象であり、しばらくすれば元に戻ると知った時には、安堵すると同時に驚愕したものよ。
人の肌、あまりにも脆弱!
それだけではない。
さらに数日後、皮がむけ始めた時には、我、悲鳴を上げた。
また別の症状が始まったと思ったからな。
我の身体はどうなってしまうのだと、本気で心配したものよ。
母上から日焼けした後には普通に起こることだと説明され、ようやく落ち着いたのだ。
まったく。
人の身体とは、何と繊細なのだ。
日差しを浴びるだけで赤くなったり、黒くなったり、皮までむけたりするとは……。
魔王だった頃の我には、考えられぬことだったからな。
しかも、後から思い返せば、あの時のユウも我と同じように日焼けしておった。
それなのに、我は自分のことで必死すぎて、まったく気づいておらなんだ。
…………。
冷静に考えれば、その時点で呪いではないと気づけたのでは?
いや。
過ぎたことを考えても仕方あるまい。
それよりも、日焼けを防げるというのなら、このラッシュガードとやらは有用ではないか。
どれ。
せっかく愛殿が用意してくれたのだ。
着てみるか。
我は服を脱ぎ、渡されたラッシュガードへ袖を通した。
…………。
おお!
ほぼ全身が隠れるではないか!
腕も脚も覆われているのに、不思議と動きにくさはない。
我は軽く腕を回し、次に足を曲げたり伸ばしたりしてみる。
うむ。
良いな。
生地が引っ張られるような窮屈さもない。
少し大きく身体を動かしてみても、邪魔になる感覚がまるでないではないか。
しかも、肌触りも悪くない。
むしろ、着ていることを忘れそうなほど軽い。
「ユウよ。おぬしのも同じなのか?」
「うん。マオのが黒で、私のが青。色が違うだけだよ」
なるほど。
確かに形は似ておるな。
我は鏡の前に立ち、自分の姿を確認する。
うむ。
悪くない。
黒を基調としたラッシュガードは、我にもよく似合っておる。
流石、我。
これがダンジョン素材を利用した衣服か。
我、驚き。
ダンジョンそのものについては未だに気になることが多いが、そこから得られた素材がこうして人々の生活へ使われているというのは興味深い。
愛殿。
後で感想を聞かれたら、素直に褒めておこう。
これは確かに良いものだ。
ただし、母上への仕事の話は自分でせよ。
我を間に挟むでない。
母上とは仲が良いのだから、己で頼むがよい。
「マオ。髪、結って」
「うむ」
振り返ると、ユウが自分の髪を持ち上げながら、我を見ていた。
確かに、長い髪では水泳帽を被るのも難しいよな。
それに、髪を下ろしたまま水へ入れば、邪魔になることもあるだろう。
良かろう。
その長く綺麗な髪。
母上から教えを受けた我の腕前、見せてやろうではないか。
「そこへ座るがよい」
「はーい」
ユウは素直に椅子へ腰を下ろした。
うむ。
素直でよろしい。
我はユウの後ろへ回り、長い髪を手に取った。
まずは髪を手で丁寧に整え……。
うむ。
絡まりはないな。
よく手入れされておる。
これならやりやすい。
ならば、全体をまとめて……。
ここをこうして……。
今度はこちらをぐるりと回し……。
崩れぬよう、指先で少しずつ形を整えていく。
すると、ユウが気持ちよさそうに目を細めながら、僅かに頭を揺らした。
「ユウよ。頭を動かすでない」
「だって、気持ちいいんだもん」
ユウよ。
だからといって、頭を揺らされては結えぬではないか。
せっかく上手くまとまり始めたというのに、このままでは崩れてしまう。
「まだ?」
「もう少し待て。ユウが動くから時間がかかるのだ」
「はーい」
うむ。
わかればよい。
今度は大人しくしておるな。
そのまま最後に髪をまとめ、ピンでしっかりと留める。
少し形を整え……。
うむ!
完成だ!
我は一歩下がり、完成した髪型を確認した。
左右の乱れもなし。
崩れる様子もなし。
水泳帽を被っても邪魔にならぬ位置。
我特製、お団子ヘアー。
完璧。
我ながら見事な出来よ。
これなら水泳帽も問題なく被れよう。
「すご~い! さすがマオ」
「ふっ。ユウよ。そう褒めるでない」
照れるではないか。
だが、もっと褒めてもよいぞ。
我、褒められることは嫌いではない。
「今度は私がやってあげるね」
うむ。
なるほど。
我がユウの髪を結ったのだから、次はユウが我の髪を結ってくれるということか。
よし。
頼んだぞ、ユウ。
我はユウと場所を入れ替え、鏡の前へ座った。
「マオの髪も長くて綺麗だね」
ユウが我の髪を手に取り、嬉しそうに笑っておる。
何を当たり前のことを。
我、魔王ぞ。
身だしなみには、きちんと気を使っておる。
元の世界でも王として公の場へ出る機会は多かったからな。
髪が乱れたまま玉座へ座るなど、威厳に関わる。
民の前へ立つ者として、見た目にも気を配らねばならぬのだ。
まあ、寝起きの我を見たモロイには何度か笑われたが。
あれは別だ。
朝は仕方あるまい。
さて。
ユウのお手並み、拝見といこうか。
…………。
………………。
……………………。
うむ?
我、鏡を見つめているうちに、少しずつ不安が膨らんできた。
何故、我の髪が右へ行ったり左へ行ったりしておるのだ?
ユウよ。
先ほどから同じところを何度も結んでは解いておらぬか?
一度右へまとめたと思えば、次は左。
その後、また全部ほどく。
そして、再び右へ。
しかも、最初より乱れてきているような気がするぞ。
大丈夫なのか?
我は鏡越しにユウの顔を見る。
…………。
真剣だ。
ものすごく真剣だ。
唇をきゅっと結び、我の髪と真正面から戦っておる。
だからこそ、何も言えぬ。
一生懸命なのは、よくわかる。
わかるのだが……。
しかし、ユウよ。
我の髪は、明らかに何か別の生き物のような形へ変わってはおらぬか?
右側だけ妙に膨らんでおる。
左側からは細い髪の束が飛び出しておる。
後ろはどうなっておるのだ?
見えぬ。
鏡では、肝心なところが見えぬ。
見えぬからこそ、怖い。
我、心配!
「あの……」
む?
鏡の中に、見知らぬ女性の姿がぬ。
見えぬからこそ、怖い。
我、映り込んだ。
おお。
近くで着替えていた女性ではないか。
我とユウの様子が気になったのか、少し困ったような笑みを浮かべながら、こちらを見ておる。
……鏡越しに目が合ったな。
頼む。
助けてくれ。
我は声に出さず、視線だけで必死に訴えた。
「何? お姉さん」
「やってあげようか?」
おお。
優しき女性よ。
我の心の声が届いた!
是非。
是非、頼む。
このままでは、我の髪がキメラにでもなりそうだ。
「……お願いします」
ユウが小さな声で答え、しょんぼりと肩を落とした。
ユウよ。
何故、そんなに落ち込んでおる。
今回は仕方あるまい。
何事も、最初から上手くできる者などそうそうおらぬ。
我とて、母上に教えてもらった時には何度も失敗したものだ。
だから、見て学ぶのだ。
髪というものは、適当にいじれば何とかなるものではないからな。
「いい? まずは髪をまとめて……」
おお。
優しき女性よ。
我の髪を整えるだけでなく、ユウへ結び方まで教えてくれておる。
女性は一度、我の髪を丁寧に解き、指先で流れを整えていく。
先ほどまで右へ左へと暴れていた我の髪が、あっという間に元の姿へ戻っていった。
我、安心。
それを見ていたユウも、女性の手元を真剣な目で覗き込んでおる。
うむ。
その調子だ。
しっかり学べ。
「ここを押さえながら、こうやってまとめるの」
「うん」
「それから、少しずつ形を整えてね。最初から強く引っ張ると、崩れやすくなるから」
「わかった」
うむ。
ちゃんと聞いておるな。
先ほどの失敗を繰り返さぬためにも、よく見て覚えるのだぞ。
しかし、この女性。
上手い。
手の動きに迷いがない。
鏡の中で、乱れていた我の髪が見る見る一つにまとまり、やがて綺麗なお団子ヘアーへ変わっていった。
「最後に、ここをまとめてピンで留めれば完成よ」
「わかった! ありがとう、お姉さん」
「ありがとう。おかげで我の髪も助かった」
心から感謝しておるぞ。
「いいのよ。じゃあね」
女性は柔らかく笑い、軽く手を振ると、そのままプールの方へ去っていった。
ふう。
我は鏡に映る自分の髪を確認する。
うむ。
綺麗にまとまっておる。
何とかなってよかった。
本当によかった。
「ごめんね。私、上手くできなくて」
ユウが申し訳なさそうに我を見ておる。
ユウよ。
そう悲しい顔をするでない。
我は平気ぞ。
途中でかなり心配だったとは言わぬがな。
「何、気にするでない。練習すればよいだけだ。我とて最初からできたわけではない。今でも我自身の髪では、上手くいかぬ時もあるからな」
他人の髪を結うのと、自分の髪を結うのでは勝手が違う。
それに、初めてなら失敗して当然だ。
失敗したのなら、次に成功すればよい。
我はそう思うぞ。
「そうだね。マオ、これからよろしくね」
ふっ。
なるほど。
その笑顔は、つまりこれから我の髪で練習するという意味だな。
…………。
先ほどの光景が頭の中へ蘇る。
右へ。
左へ。
また右へ。
そして最後には、キメラ。
…………。
嫌だとは言えまい。
あれほど真剣に学んでいたのだ。
次はきっと大丈夫。
多分。
いや。
きっと。
…………。
我、諦めよう。
「マオ。行こう!」
ふっ。
先ほどまで落ち込んでいたのが嘘のように、もう元気よな。
切り替えが早い。
だが、まあよい。
ユウよ。
おぬしは、その方が似合っておる。
「待て。まだロッカーの鍵を取っておらん」
「あっ!」
まったく。
騒がしい奴よな。
我はロッカーへ戻って鍵を掛け、その鍵を腕に装着。
うむ。
これでよし。
「今度こそ行こう!」
「わかっておる。そう急かすでない」
さて。
準備も整ったことだし、今度こそ泳ぐとするか。
暑い中、ここまで来たのだ。
存分に水の中を泳いでやろうではないか。
我も学校の授業で水泳は経験しておるし、魔王だった頃には水中で戦ったことさえある。
今の身体にもすでに慣れ、泳ぐことには困らぬ。
学校のプールとは違う、市民プールとやらがどれほどのものか、見せてもらおうではないか。
向こう側から聞こえてくる、多くの人の声。
水の揺れる音。
我の気分も少しずつ高まってくる。
よし。
いざ、市民プールへ続く扉を開かん!
そして――。
扉の先へ足を踏み出した瞬間、眩しい日差しが我の目に飛び込んできた。
水面が光を反射し、あちらこちらで楽しそうな声が上がっている。
目の前に広がるプールは、学校のものよりもはるかに広い。
おお。
これは――。
我、驚愕。
…………。
いや。
待て。
我、困惑。
人というものは、こうも水場へ集まるものなのだな。
プールの周囲を歩く者。
水の中で遊ぶ者。
端の方で浮かんでいる者。
子供を連れた家族。
友人同士で楽しそうに笑う者たち。
何処を見ても、人、人、人。
我は空いている場所を探そうと、右へ左へ視線を動かした。
…………。
ない。
いや。
正確には、入る場所はある。
だが、泳ぐには人が多すぎる。
水面の至るところから頭が出ておるし、楽しそうに遊ぶ者たちが絶えず動き回っている。
これでは、水に入ることはできても――。
泳げぬではないか!
我、悲しい。




