第五話 我、プールに (10/4書き直し)
更衣室には、大勢の女性がいた。壁際にはロッカーがずらりと並び、その前では皆が荷物を広げ、次々と水着に着替えている。床には濡れた足跡が残り、プールへ続く扉の向こうからは水の跳ねる音と、楽しそうな声が絶えず聞こえてきた。
ここに来るまで炎天下を歩かされたマオとしても、一刻も早く水に入りたいところだった。
「はい。これ、マオの水着が入った水泳カバン」
「うむ。ありがと……う?」
ユウから受け取ったカバンを開き、中を覗いたマオは首を傾げた。取り出した水着は、学校で使っているスクール水着とは明らかに違う。
指先で生地を撫でてみる。薄く、柔らかい。それでいて、頼りなさは感じなかった。軽く引っ張ればよく伸び、手を離した途端に元の形に戻る。
(ほう……随分と丈夫そうだな)
マオの知る限り、元の世界はもちろん、この世界でも触れたことのない素材だった。
「何だ、これは?」
「ん?新しい水着」
着替えながら、ユウは当然のように答えた。マオは続きを待つように見つめる。しかし、ユウはそれだけ言うと再び着替えを始めてしまった。
(……それだけ?他に説明はないのか?)
どうやら、詳しいことまでは知らないらしい。マオは小さく息を吐き、カバンの中身をすべて取り出した。すると、その底に小さく折り畳まれた紙が入っていることに気づく。
「手紙まで入っておるな」
指先で摘まみ上げた瞬間、胸の奥を嫌な予感がかすめた。
ユウが突然「外へ行こう」と言い出すこと自体は、いつものことだ。だが今回は、マオの水着まで用意されていた。入場料も愛から預かっている。さらに、この手紙。
(……怪しい。この水着、何かあるのか?)
マオは紙を開いた。
『マオちゃんへ。我が社の子供用ラッシュガードセットです。ダンジョン素材を使用しているよ。やったね!』
「…………」
手紙。そして、手にしたラッシュガード。マオの視線がゆっくりと行き来する。
(愛殿。何が『やったね!』なのだ?)
とはいえ、ダンジョン素材という言葉には興味を引かれた。ダンジョンから持ち帰られた素材が、衣服や装飾品をはじめ、様々な製品に利用されていることは学校でも習っている。スマホで調べたこともあった。ただ、まだ一般的な衣服ほど身近なものではなく、マオ自身が身につけるのは初めてだった。
改めて生地を摘まんでみる。やはり、普通の衣服とは明らかに感触が違う。マオは興味深そうに生地を見つめた。
(少し面白くなってきたの)
再び手紙に目を落とす。
『水着としても使えるから、試してみてね。後で感想を聞かせてもらえたら、おばさん嬉しいな。PS、できたら先生に特別デザインをお願いできないか聞いてみてくれたら、さらにおばさん嬉しいな』
「…………」
先ほどまで浮かんでいた笑みが消えた。
(これか!)
嫌な予感の正体が、ようやくわかった。試作品を着てもらい、感想を聞き、今後の製品に反映する。そこまでは理解できる。
問題は、最後の追伸だ。どうやら愛は、マオを経由して由紀に仕事の話を持っていこうとしているらしい。
(愛殿……我を使う気だな?)
直接頼むより、娘の幼馴染であるマオを間に挟んだ方が、話を持ち込みやすいと考えているのだろう。商機は逃さない。使えるものは使う。実にしたたか。
そこまで考えたマオは、ふっと笑った。
(嫌いではないぞ、その姿勢)
手紙を折り畳んでカバンに戻し、改めてラッシュガードを手に取る。
「うむ。ラッシュガードか」
「そうなの。水着としても使えて、肌もある程度隠せるから、日焼けも防げるって言ってた」
「日焼け……」
その言葉を聞いた途端、マオの表情が僅かに強張った。
日焼け。今では、それが何なのか知っている。だが、初めて経験した時は違った。
まだ幼かった頃。真夏の日に由紀が買い物に出かけるというので、マオもついて行った。目的はアイス。特別なことをしたわけではない。買い物をして、念願のアイスを食べ、家に帰った。ただ、それだけだった。
ところが――。鏡に映った自分を見て、マオは固まった。肌が少し黒くなっていた。
最初は気のせいだと思った。いや。気のせいだと信じたかった。
しかし、その後もユウに連れ出され、一日中外で遊んだ日のこと。帰宅して鏡を見ると、肌はさらに黒くなっていた。
(あの時は本気で恐怖したな。呪われたと思ったしの……)
いつ。どこで。誰に。まるで見当がつかない。魔王であることが誰かに知られ、密かに呪い殺されようとしているのではないか。そんな考えまで浮かんだ。
恐ろしくなったマオは自室に籠もり、何度も自分に解呪魔法を使った。まずは弱い術。治らない。ならばと、さらに強い術。それでも治らない。ついには本気の解呪まで試したが、肌の色は戻らなかった。
しかも、風呂に入れば肌が染みるように痛む。マオの中では、完全に「呪いが進行している」という結論に達していた。
(我でも解けぬ呪いなのではないかと、本気で焦ったぞ)
仮にも魔王だった存在が、日焼けを前に死すら覚悟した。
そして――。少しだけ泣いた。
(…………あれは秘密だ)
後になって由紀から、それは日焼けという自然な現象で、時間が経てば元に戻ると教えられた。肌の手入れまでしてもらい、ようやく一安心。
ところが数日後。今度は皮膚の表面が剥がれ始めた。当然、マオは再び大騒ぎした。それも日焼けの後に起こることがあると聞くまで、また別の異変が始まったものと思い込んでいたのだ。
(人の身体、繊細すぎるだろう……)
日差しを浴びれば赤くなる。黒くなる。痛くなる。挙げ句の果てには皮まで剥ける。魔王だった頃の身体では、考えられないことばかりだった。
後から落ち着いて思い返してみれば、あの日のユウも同じように日焼けしていた。もっと早く気づいていれば、少なくとも呪いではないと判断できたかもしれない。だが、当時のマオにそんな余裕はなかった。
(まあ、過ぎたことよな)
ともあれ、日焼けを防げるというのであれば、このラッシュガードはありがたい。
「せっかく用意してくれたのだ。着てみるか」
マオは服を脱ぎ、黒いラッシュガードセットに着替えていく。腕。胴体。脚。ほとんどの肌が覆われていく。だが、動きづらさはない。窮屈さすら感じなかった。
「おお……」
軽く腕を回す。屈伸。身体を捻る。どれだけ動いても、生地が邪魔にならない。身体に沿って伸び縮みするため、引っ張られるような感覚もほとんどなかった。しかも軽い。
「ユウよ。おぬしのも同じなのか?」
「うん。マオのが黒で、私のが青。色が違うだけだよ」
見ると、ユウも同じ形の青いラッシュガードを身につけている。よく似合っていた。
マオも鏡の前に立ち、自分の姿を確認する。黒を基調とした生地が身体にすっきりと馴染んでいた。
(うむ。似合っておる)
これが、ダンジョン素材を利用した衣服。ダンジョンそのものには、未だ気になることが多い。だが、そこから得られた素材が、こうして人々の生活に役立っているのは素直に興味深かった。愛に感想を聞かれたなら、このラッシュガードについては素直に褒めてもいい。ただし――。
(母上への仕事は自分で頼め。仲が良いのだから、我を使う必要はなかろう)
「マオ。いつも通り髪、結って」
「うむ」
鏡で自分の姿を確認していると、後ろからユウの声がした。振り返れば、ユウは長椅子に座り、長い髪を両手で持ち上げて待っている。いつものことだった。学校の水泳授業でも、長い髪が邪魔にならないようマオが結んでやっている。
「そこに座るがよい」
「はーい」
ユウが鏡の前にある椅子に腰を下ろす。マオはその後ろに立ち、慣れた手つきで長い髪をまとめ始めた。まずは指を通し、絡まりを確認する。よく手入れされているらしく、髪はするりと指の間を抜けていった。由紀から教わっているうえ、水泳の授業でも何度も結んでいる。手つきはすっかり慣れたものだった。髪をまとめ、形を崩さないよう少しずつ巻いていく。
ところが途中で、ユウの頭が僅かに揺れた。
「ユウよ。頭を動かすでない」
「だって、気持ちいいんだもん」
「動かれては結えぬではないか」
「まだ?」
「もう少し待て。おぬしが動くから時間がかかるのだ」
「はーい」
ようやく大人しくなったユウの髪を、最後までまとめる。ピンでしっかりと固定し、一歩下がって左右を確認。崩れはない。水泳帽にも綺麗に収まりそうだった。
「うむ。完成だ」
「すご~い!さすがマオ!」
「ふっ。そう褒めるでない」
口ではそう言いながらも、マオの口元は僅かに緩んでいた。ユウもそれを知っているのか、楽しそうに笑っている。
「今度は私がやってあげるね」
「うむ。頼むぞ」
順番を入れ替え、今度はマオが椅子に腰を下ろした。
「マオの髪も長くて綺麗だね」
「当然よ」
元の世界でも、王として人前に出る機会は多かった。身だしなみを整えることも、立場ある者の務め。髪を乱したまま玉座に座るなど、威厳に関わる。もっとも、寝起きの姿をモロイに笑われたことは何度かあったが、それは別の話だ。
マオは鏡越しにユウを見る。ユウがマオの髪を結ぶのは、今回が初めてだった。
(さて。お手並み拝見といこうか)
最初は余裕だった。しかし、しばらくするとマオの眉間に僅かな皺が寄り始めた。
(……うむ?)
髪が右へ動く。次は左。また右。そして、一度全部解かれた。ユウはもう一度まとめようとする。だが、先ほどより乱れている。髪のあちらこちらが跳ねていた。そして、また解く。
(先ほどから何度も結んでは解いておらぬか?しかも、一向にまとまっておらんぞ)
右側だけ妙に膨らんでいる。左側からは細い髪の束が飛び出していた。後ろは鏡では見えない。見えないからこそ怖い。
マオは鏡越しに、そっとユウの顔を確認する。真剣だった。唇をきゅっと結び、まるで強敵と戦っているかのようにマオの髪と向き合っている。
一生懸命なのは、よくわかる。それだけに何も言えない。わかるのだが――。
(我の髪、キメラみたいになっておらぬか?)
「あの……」
不安が限界に近づいたところで、不意に声をかけられた。鏡を見ると、近くで着替えていた女性がこちらを見ている。少し困ったような、けれど優しげな笑みを浮かべていた。鏡越しに、マオと目が合った。
(頼む。助けてくれ)
声には出さない。だが、その必死な視線は通じたらしい。
「何?お姉さん」
「やってあげようか?」
(おお!通じた!)
まさに救いの手だった。
「……お願いします」
ユウが小さな声で答え、しょんぼりと肩を落とした。その様子を見て、マオは少しだけ申し訳なくなる。
「ユウ。落ち込むでない。最初から上手くできる者など、そうそうおらぬ」
マオとて、由紀に教わり始めた頃は何度も失敗した。ならば、見て覚えればいい。
「いい?まず髪をまとめてね」
女性は一度マオの髪を解き、指先で丁寧に整えていく。先ほどまで乱れていた髪が、瞬く間に元の状態に戻っていった。
(我の髪が生還した……)
ほっとしながら鏡越しにユウを見ると、彼女は女性の手元を真剣な表情で覗き込んでいた。
「ここを押さえながら、こうやってまとめるの」
「うん」
「それから少しずつ形を整えてね。最初から強く引っ張ると、崩れやすくなるから」
「わかった」
女性の指に迷いはない。髪は見る間に整えられ、やがてマオにもよく似合うお団子になっていく。
「最後に、ここをピンで留めれば完成よ」
「ありがとう、お姉さん!」
「ありがとう。おかげで我の髪も助かった」
「どういたしまして。それじゃあね」
女性は笑顔で軽く手を振り、そのままプールへ向かっていった。
マオは鏡に映る自分を確認する。髪は綺麗にまとまっていた。これでようやく準備完了だ。
「ごめんね。私、上手くできなくて」
ユウが申し訳なさそうに俯く。マオは首を横に振り、安心させるように肩に手を置いた。
「何、気にするでない。練習すればよいだけだ。我とて最初からできたわけではない」
「そうだね」
ユウが顔を上げる。そこには、いつもの明るい笑顔が戻っていた。
「マオ、これからよろしくね」
「…………」
その一言で、今後マオの髪が練習台になることは確定した。
先ほどの光景が脳裏に蘇る。右へ。左へ。また右へ。まとまるどころか、どんどん形を失っていった髪。
(……次は大丈夫。きっと。多分)
「マオ。行こう!」
先ほどまで落ち込んでいたのが嘘のように、ユウはすっかり元気を取り戻していた。マオの手を掴み、そのまま歩き出そうとする。
「待て。まだロッカーの鍵を取っておらん」
「あっ!」
「まったく。騒がしい奴よな」
二人はロッカーに戻り、荷物を確認してからそれぞれ鍵を掛け、その鍵を腕に装着した。これで今度こそ準備は整った。
「今度こそ行こう!」
「わかっておる。そう急かすでない」
プールへ続く扉に向かう。その先からは、楽しげな声が響いていた。
学校の授業で水泳は経験している。魔王だった頃には、水中で戦ったことさえあった。今の身体にも十分慣れているため、泳ぐこと自体に不安はない。むしろ、学校とは違う市民プールという場所に興味が湧いていた。
扉に近づくにつれ、声がさらに大きくなる。水が波立つ音。子供たちの笑い声。自然とマオの気分も高まっていった。
「では、行くぞ」
「うん!」
扉を開き、外へ踏み出す。強い日差しが一気に視界に飛び込んできた。水面が太陽の光を反射し、眩しく輝いている。目の前に広がるプールは、学校のものより遥かに大きかった。
「おお……」
思わず、マオの口から感嘆の声が漏れる。
だが、その感動は長く続かなかった。少しずつ表情が固まっていく。
(……待て)
プールの周囲には、大勢の人。水の中にも、大勢の人。子供を連れた家族。友人同士で遊ぶ者たち。浮き輪で漂う者。水を掛け合いながら笑う子供たち。見渡す限り、人、人、人。
マオは右を見る。左を見る。さらに奥を見る。空いている場所を探した。
入る場所ならある。だが――。泳げるだけの空間がない。
水面の至るところに人の頭が見え、あちらこちらで子供たちが動き回っている。本気で泳ごうものなら、誰かにぶつかりかねない。その事実に気づき、マオの肩がゆっくりと落ちていった。
(これでは……泳げぬではないか)
暑い中を歩いた。半ば強引に連れてこられた。見慣れない水着にも着替えた。ようやくプールに辿り着いたというのに。肝心のプールでは、まともに泳げそうにない。マオは賑わう水面を見つめたまま、小さく息を吐いた。
(我、悲しい)




