第四話 我、食を満喫。そして連行 (10/4書き直し)
この世界に転生して、10年。マオは、この世界での生活にかなり満足していた。中でも気に入っているのが、食事だ。
元の世界では大切に隠していた高級な茶葉や菓子。それと同じくらい美味しいものが、この世界では普通の店に並んでいる。その事実を初めて知った時、マオは心の底から歓喜した。
まだ幼かった頃、両親に連れられて買い物に出かけた日のこと。何気なく立ち寄ったコンビニで、棚いっぱいに並ぶ菓子や飲み物を目にした。当時のマオには、それが宝物庫のように見えたのだ。マオが思わず小躍りするほど喜んだものだから、両親はもちろん、近くにいた店員まで驚いていた。
(我、幸せ)
これほど簡単に手に入るのであれば、もうモロイに菓子を食べられたり、勝手に茶葉を使われたりしても怒らない――。そこまで考えて、マオは僅かに首を傾げた。
(…………いや。それは自信がないな)
そして、もう一つ。マオがこの世界で知った、驚くべき食文化がある。生魚。
元の世界にいた頃のマオにとって、生で魚を食べるなど恐怖でしかなかった。
「昔は食べなかったのにな」
向かいの席から聞こえた父の言葉に、マオは眉を寄せた。
「父上よ。それは昔の話よ。今の我は好きだぞ」
実際、今では好物の一つである。元の世界では、生魚を食べるたびに腹痛に苦しめられていた。だが、この世界ではそんな心配もほとんどない。中でも特に気に入っているのが、寿司。
そして今日、マオたちが訪れているのは回転寿司店だった。次から次へと寿司が流れてきて、好きなものを自由に取って食べられる。さらにタッチパネルで注文すれば、欲しいものが席まで運ばれてくる。
(実に素晴らしい)
「マオ、昔は駄目だったの?」
隣に座るユウが、不思議そうに顔を覗き込んできた。
「ユウよ。だから昔のことはよい。それより、おぬしは何故そんなものばかり頼んでおるのだ?」
マオはユウの前に並んだ皿を見る。ハンバーグ。カルビ。そして、またハンバーグ。
魚が一つもない。
「パパ。うどんも食べたい」
「いいよ。博さん、ビール飲みます?」
「すいません。お願いします」
ユウの父、白崎仁がタッチパネルを操作し、注文を通していく。
今日はマオと父の博、それにユウと仁の四人で来ていた。仲の良い家族同士での食事。それ自体には何の問題もない。
問題は――。ビール。
その言葉に、マオの視線がタッチパネルに吸い寄せられた。
元の世界にいた頃、マオも酒を嗜んでいた。だが、今の身体は10歳。当然、飲むことはできない。
(酒か……飲みたい)
ふと、元の世界の魔王城に隠していたヴィンテージワインを思い出す。飲み頃になるまで、大切に取っておいた一本。勇者が部屋を破壊した時、あれは無事だったのだろうか。
(…………考えるのはやめよう)
仮に無事だったとしても、今のマオにはどうすることもできない。異世界に転生した結果、再び酒を飲める年齢になるまで待たされるとは思ってもいなかった。
「マオは頼まないの?」
ユウの声で、マオは現実に戻った。
「ふっ。我を見くびるでない。もうすでに頼んでおる」
この世界に来たばかりの頃は驚かされたタッチパネルも、今ではすっかり使い慣れている。
ほどなくして注文品が流れてくると、マオは待ち構えていたように三皿を手元に引き寄せた。
「イカ、えんがわ、エビ。ふふふ。我、完璧!」
艶のあるイカ。脂の乗ったえんがわ。色鮮やかなエビ。
三皿を前に、マオは満足そうに頷いた。
(完璧な布陣よな)
まず何から食べるか。そんな幸せな悩みに浸っていた時だった。
「お、えんがわ貰うぞ」
向かいから伸びてきた手が、一皿をさらっていく。マオの目が見開かれた。
「父上よ!」
声を上げた時には、もう遅い。博はすでに一貫を口に入れていた。
「うん。うまいな」
「父上よ。それはなかろう」
一番楽しみにしていたえんがわ。それを目の前で奪われ、マオの頬が不満そうに膨らむ。
(モロイを思い出す。あ奴も我が大切に隠しておった菓子や茶葉を、我が物顔で持っていきおったからな)
「大丈夫だ。また注文しておくから」
「そういうことではない」
食べ物の恨みというものは、そう簡単に消えるものではない。
マオが恨めしそうに博を見ていると、そこへ別のものが運ばれてきた。
「博さん、ビール来ましたよ」
「おお!久しぶりだな、日本のビール」
テーブルに冷えたグラスが置かれる。黄金色の液体。表面を覆う白い泡。冷えたグラスには細かな水滴まで浮かんでいた。
マオの視線が吸い寄せられる。博がグラスを持ち上げると、その動きに合わせてマオの目も上に動いた。
(父上。先ほど我のえんがわを食べたよな?)
じっと見つめる。言葉にはしない。ただ、目で訴える。
(一口くらい――)
もちろん、そんな願いが叶うはずもなかった。
博は何も気づかず、そのままグラスに口をつける。喉を鳴らしてビールを飲み、満足そうに息を吐いた。
「マオ?なんか顔、怖いよ」
ユウの声に、マオは力なく俯いた。
「我、無力……」
どれほど強大な魔力を持っていても、今のマオは10歳。ビールの前では、あまりにも無力だった。
もちろん、力ずくで奪うなど論外である。何せ、かつて一国を治めていた王なのだ。その程度の常識は持ち合わせている。
(いつか……いつの日か、我も飲んでやる)
今は寿司で我慢するしかない。
そうしているうちに、新しく注文したえんがわが届いた。マオは今度こそ誰にも取られないよう、素早く皿を自分の前に引き寄せる。一貫を口に運べば、脂の甘みが舌いっぱいに広がった。
先ほどまでの不満も、少しずつ消えていく。自然と頬が緩んだ。
(うむ。美味い!)
そうして食事を終え、店を出る頃には、マオもすっかり上機嫌になっていた。
「美味しかったね、お寿司」
店を出たところでユウが満足そうに言う。
だが、マオはその言葉に眉をひそめた。ユウが頼んでいたのは肉にうどん、さらにはデザート。結局、魚は一皿も食べていない。
「ユウよ。おぬし、肉や麺類ばかりで魚は食っておらぬではないか」
「だって、魚嫌いだし」
マオの足が止まった。
(ならば何故、寿司屋に来た)
「大きくなったら、美味しさがわかるようになるよ」
博が笑いながらそう言うと、ユウはすぐに仁を指さした。
「おじさん。でもパパも残すよ。ピーマンとか」
「しーっ!恥ずかしいから言わないの!」
仁が慌てる。しかし、時すでに遅し。
マオは呆れたように二人を眺めた。
そんな中、ユウが今度は博に顔を向ける。
「おじさんは好き嫌いないの?」
「……ないね」
妙な間があった。マオはその僅かな沈黙を聞き逃さなかった。
「いや、あろう。父上はニンジンが食えぬ。毎回、我が食っておる」
「こら、マオ!」
博が慌てて止めるが、もう遅い。マオは僅かに口角を上げ、仕返しと言わんばかりに父を見る。
(えんがわの恨みよ)
「ああ、わかりますよ。苦手なものってありますよね。私もピーマンは少し苦手で」
仁が苦笑しながら答える。
「白崎さんまで正直に言わなくても……」
博が困ったように笑った。
「なら、私も大丈夫ね」
ユウが満足そうに頷く。
子供の好き嫌いを注意していたはずなのに、いつの間にか大人二人まで苦手な野菜を告白する流れになっていた。マオは三人の顔を順番に眺める。
(何故こうなった?)
回転寿司から数日後。マオの頭には、いまだダンジョンへの疑念が残っていた。10年前、自分が転生した時期とほぼ同じ頃に現れ始めた不可思議な存在。
父の博は、行政のダンジョン研究所で働いている。帰国している今なら、何か聞けるかもしれない。
だが、問題は聞き方だった。自分が元の世界で魔王だったことは、家族にも話していない。ましてや、ダンジョンマスターという能力を持っていたことなど説明できるはずもなかった。
(『我の能力と似ておるのだが、何か知らぬか?』などと聞けるわけがないよな)
結局、どう切り出すべきか答えは出ない。焦ったところで、すぐに真相に辿り着けるとも思えなかった。今のマオに調べられる範囲にも限界がある。
それよりも――。今は夏休み。学校はない。時間はいくらでもある。そして、宿題もある。
(まだ慌てる時間ではあるまい)
決して、最後にまとめて片づけるつもりではない。ただ、元の世界にいた頃から、マオには追い込まれなければなかなかやる気が起きないところがあった。
山積みになった書類を前にしても、「まだ大丈夫」と先延ばしにする。その結果、最後には決まってモロイに怒られていた。
『魔王様。そろそろ書類に目を通し、サインをお願いします。でなければ何も進みません』
何度聞いたかわからない言葉だ。元の世界に残ったもう一人の自分も、今頃は同じことをしている気がしてならない。
(…………容易に想像できるな)
「あついぃ~~」
隣からユウの声が聞こえた。
真夏の日差しが、住宅街に容赦なく降り注いでいた。熱せられたアスファルトからはむっとした熱気が立ち上り、歩いているだけで額に汗が滲む。
しかもユウは、何故かぴったりとマオにくっついている。
「ユウ。離れぬか」
「あついよ、マオ~~」
「我も暑い!だから離れろと言っておる!」
腕にまとわりつかれ、余計に暑い。
マオ一人なら、魔法で風を起こして涼しくすることもできる。しかし、ユウの目の前で不用意に魔法を使うわけにはいかない。少しくらいなら気づかれないかとも思ったが、ユウは妙なところで勘が鋭い。結局、諦めるしかなかった。
そこでマオは、ようやく根本的な疑問に気づいた。
「ユウよ」
「なに?」
「何故、我らはこの暑い中、外におるのだ?」
「え?プール」
「…………」
マオの足が止まった。そして、少し考える。
「プール?」
「うん」
ユウは当然のように頷く。
だが、マオは聞いていない。今日はユウから「外へ行こう」と言われ、半ば強引に連れ出されただけだ。行き先など、一度も聞かされていない。
プール。つまり、水に入る。そして、水に入るなら――。
「我、水着など持ってきておらぬぞ?」
「大丈夫。私が二つ持ってきてるから」
「…………」
ユウの肩には、確かに大きめのバッグが掛かっている。マオはそれを見てから、ゆっくりとユウの顔に視線を移した。
最初から用意していた。つまり、今日マオを連れ出した時点で、一緒にプールに行くことは決定していたということになる。
(我に拒否権はなかったのか?)
「ほら、早く行こう!」
「待て。ユウよ。我はまだ行くとは――」
最後まで言わせてもらえなかった。ユウに手を掴まれ、そのまま引っ張られる。
「暑いから早く!」
「話を聞かぬか!」
力比べなら、マオも負けない。だが、道端で10歳の少女二人が本気で力比べをするわけにもいかない。結局、そのままユウに連行された。
辿り着いたのは、市民プール。大きなプールを皆で利用する公共施設らしい。元の世界では見たことのない場所だった。建物の向こうからは子供たちの楽しそうな声が響き、時折、水が跳ねる音も聞こえてくる。
それにしても暑い。この世界に転生して驚いたものはいくつもあるが、夏の暑さもその一つだった。何もしていなくても汗が出る。日陰に入っても暑い。夜になっても、なかなか涼しくならない。
(元の世界では、ここまで暑くなることなどなかった。この異世界の夏、恐ろしい)
もっとも、その暑さを凌ぐために大勢で水に入って遊ぶ施設を作るという発想は悪くない。マオにも少しだけ興味が湧いてきた。
「小学生二人で」
「600円です」
受付でユウが財布を取り出し、小銭を用意する。
「ユウよ。我の分は我が出すぞ」
「いいよ。ママからマオの分ももらってるから」
「愛殿が?」
「うん」
白崎愛。ユウの母であり、マオの母である由紀とも親しい。衣服を扱う仕事に関わっており、天神家に遊びに来ることも珍しくない。
どうやら今回のプールについても、愛には最初から話が通っていたらしい。そこまで考えたところで、マオの胸に妙な不安が芽生えた。
「マオ。更衣室に行こう」
「う、うむ」
料金を支払い終えたユウが、楽しそうに先に進んでいく。その肩には、二人分の水着が入っているというバッグが掛かっていた。
マオはその後ろ姿を眺めながら歩く。
自分には何も聞かされていない。なのに入場料まで用意され、水着まで準備されている。あまりにも手際がいい。
(待て)
マオの目が細くなる。
(愛殿まで関わっておるのか?)
どうやら、ユウ一人の計画ではなさそうだ。
受付の先にある更衣室に向かいながら、マオは警戒するようにバッグに視線を向けた。あの中には、一体どんな水着が入っているのか。
(…………何故だろうな。ものすごく嫌な予感がする)




