第16話 我、期待を胸に (10/14書き直し)
動きやすい服装。
昨夜、千葉から送られてきた予定表の注意事項には、そう書かれていた。
ならば、何を着ていくべきか。少し考えたマオの答えは、実に単純だった。
(ジャージよな)
軽くて動きやすく、多少汚れても困らない。今日から本格的な授業が始まる以上、運動や訓練を行う可能性も十分に考えられる。その点、ジャージなら何の問題もない。
(実に合理的。何より楽だからな)
そうして迷うことなくジャージに着替えたマオは、そのまま一階に下りた。
階段を下りるにつれ、味噌汁の香りが漂ってくる。
(おお。今日もよい香りよな)
自然と足取りが軽くなったマオがリビングに入ると、食卓では由紀が朝食の準備を整えていた。
「おはよう、母上」
「おはよう、マオ」
由紀は笑顔で振り返ったが、娘の姿を見た途端、僅かに目を丸くした。
「……マオ。その格好で行くの?」
「うむ。動きやすいからな」
マオは当然のように答え、食卓に向かった。すると、すでに席に着いていた博の視線が、マオの頭から足元までゆっくりと動いた。
「マオ。もう少し女の子らしい服では駄目なのかい?」
「む?」
マオは立ち止まり、自分の格好を見下ろした。
動きやすい上下のジャージに、足元は履き慣れた運動靴。特に問題があるようには思えない。
(父上よ。我は学校に学びに行くのだぞ?)
服というものは、見栄えだけで選ぶものではない。場所と目的、それに動きやすさ。それらを考えれば、今日の服装は十分に正しい選択のはずだった。
「可愛い服でも構わぬが、今日は学校で身体を動かすかもしれぬのだぞ。汚したり、破いたりする可能性もあるではないか」
「それはそうなんだけどね。外へ出る格好としては、ちょっとラフすぎるというか……」
博はどうにも納得できないらしく、娘のジャージ姿を眺めている。
(ふむ)
どうやら、博としてはもう少し可愛らしい服を着てほしかったらしい。その気持ちは、マオにもわからなくはない。
普段から博は、娘の服装を何かと気に掛けてくれる。休日に出掛ける際などは、似合いそうな服を一緒に選んでくれることもあった。
(父上としては、我に可愛い服を着てほしいのだろうな)
それは理解している。だが、学校から動きやすい服装を指定されている以上、マオにとってジャージ以上の選択肢はなかった。
そこへ、由紀が助け舟を出した。
「あなた。そこまでよ。予定表に動きやすい服装って書かれていたんでしょう? マオが自分で考えて選んだんだから、それでいいじゃない」
「そうだけど……」
「それに、可愛い服を着せて訓練中に破かれでもしたら、それはそれで嫌でしょう?」
「……それは困るね」
博の肩が僅かに落ちた。
(うむ。流石は母上)
父親の願望が、あっさり退けられた。
もっとも、マオとしても可愛い服が嫌いなわけではない。ただ、今日はジャージの方が適しているというだけの話だ。
「我は学校に学びに行くのだ。おしゃれは二の次よ。それより――」
そこでマオの視線が食卓に向いた。
途端に、興味の対象が変わった。
炊きたてのご飯。湯気とともに味噌の香りが立ち上る味噌汁。綺麗な黄色に焼き上げられた卵焼きに、表面に程よく焼き色のついたウインナー。
朝から食欲を刺激する献立が並んでいる。
(…………完璧よな)
思わず口元が緩んだ。
マオはすぐに席に着くと、嬉しそうに由紀を見上げた。
「母上。ありがとう」
「どういたしまして。冷めないうちに食べなさい」
「うむ!」
マオは背筋を伸ばし、両手を合わせた。
「いただきます」
この世界で知った言葉の中でも、マオはこの挨拶が好きだった。
食材となった命。それを育て、運び、料理した者たち。一つの食事が目の前に並ぶまでには、多くの命と人の手が関わっている。
そのすべてに感謝する言葉だと知ってから、食事の前には自然と口にするようになっていた。
元の世界でも、食料は決して当たり前に手に入るものではなかった。天候や災害、戦争や魔物の被害によって、作物が育たず、流通が止まることもある。一国を治めていたからこそ、何事もなく食事ができることのありがたさは、よく理解していた。
(故に、感謝して食べる。大切なことよな)
まずは味噌汁を一口。温かな汁が喉を通り、寝起きの身体にじんわりと染み渡る。
続いて卵焼きに箸を伸ばした。柔らかな食感と優しい甘みが舌に広がる。
「……美味い」
思わず頬が緩んだ。
(我、幸せ)
朝から美味しいものを食べられる。それだけで、一日を気分よく始められるというものだ。
マオが上機嫌で箸を進めていると、由紀は使い終えた食器とカップを流し台に運んだ。そのままマオの後ろを通る際、頭を優しく撫でる。
「じゃあ、私は仕事に戻るわね。マオ、忘れ物には気をつけるのよ」
「うむ。承知した」
「それと、最初から無理しすぎないようにね」
「わかっておる。母上も無理するでないぞ」
「ふふっ。ありがとう」
由紀は柔らかく微笑むと、そのまま二階の仕事部屋に戻っていった。
朝食を終えたばかりだというのに、休む間もなく仕事を始めるらしい。
(今日も忙しいようだの)
締め切りが近づけば、由紀もアシスタントたちも驚くほど忙しくなる。仕事部屋から出てくる時間が減り、食事を忘れそうになることさえあった。
(母上。無理だけはするでないぞ)
そんなことを考えながら母親の背中を見送っていると、向かいから博の声が届いた。
「マオ」
「なんぞ?」
「今度、一緒に服を買いに行こうか」
「む?」
マオは箸を止めた。
「よいのか?」
「もちろん。休みの日にでも、マオちゃんに似合う服を探しに行こう」
「おお! ありがとう、父上!」
予想していなかった提案に、マオの顔が明るくなった。
(どうやら父上は、本気で我に可愛い服を着せたいらしい)
今日のところはジャージで納得してくれたようだが、それとこれとは別なのだろう。
もっとも、マオも可愛い服が嫌いなわけではない。
(父上が買ってくれるというのなら、断る理由もないの)
何を選ぶかは、その時に考えればいい。
マオが嬉しそうに笑うと、博もようやく満足したらしく、穏やかな笑みを浮かべた。その様子を見て、マオは再び朝食に箸を伸ばした。
残っていたご飯とおかずを綺麗に食べ終えると、両手を合わせる。
「ごちそうさまでした」
食器を流し台に運び、自室に戻ると、登校の準備を始めた。
机の上には、昨夜のうちに必要なものを並べてある。後は、忘れ物がないか確認して鞄に収めるだけだ。
(さて。確認するとしよう)
まずは、昨日支給されたハンタースマホ。続いて、生徒手帳。スマートウォッチは右腕に装着し、ベルトをしっかりと固定する。
認証プレートは専用ケースに収めたまま首から下げ、ジャージの内側に入れた。
昨日、千葉から説明されたことを思い出しながら、一つずつ確認していく。
(うむ。これでよし)
あとは、小学校の頃とそれほど変わらない。
ノートに筆記用具。教科タブレット。汗を拭くためのタオルと財布。そして、普段使っているスマホ。
それらを鞄に収め、最後に予定表をもう一度確認する。
(忘れ物は……ないな)
机の上にも、取り残したものは見当たらない。
マオは満足そうに頷いた。
「よし!」
(我、準備完了!)
鞄を肩に掛けた――その時だった。
「マオ! 行くよー!」
玄関扉の向こうから、聞き慣れた声が響いた。
(む? もう来たのか)
時計を確認すると、ちょうど家を出る予定だった時間である。
(流石はユウ。時間どおりよな)
「うむ! 今行くぞ!」
返事をしたマオは、自室を出て階段を下りた。
途中、リビングから出てきた博と顔を合わせる。
「ユウちゃん、もう来たんだね」
「うむ。時間どおりよな」
博と一緒に玄関へ向かい、扉を開ける。
そこには、鞄を肩に掛けたユウが立っていた。
「おはよう、マオ!」
「うむ。おはよう、ユウ」
いつもどおりの挨拶を交わしたところで、マオはふと気づいた。
「……む?」
その視線が、自然とユウの服装に向かう。
動きやすそうな上下のジャージ。足元には運動靴。
まるで自分を見ているかのような格好だった。
(ユウよ。おぬしもか)
すると、ユウも同じことを思ったらしい。
「あっ! マオもジャージなんだ!」
「うむ。ユウも同じではないか」
「だって、予定表に動きやすい服って書いてあったから」
「我も同じ理由よ」
二人は互いの姿を見比べ、ほぼ同時に笑った。
「やっぱりジャージが楽だよね」
「うむ。動きやすさを考えれば、実に合理的よな」
「汚れても気にならないしね」
「まったく、そのとおりぞ」
どうやら、考えたことはほとんど同じだったらしい。
(流石、長年一緒におる幼馴染よな)
動きやすい服装。そう指定されれば、ジャージ。実にわかりやすい。
少なくとも、マオにとっては当然の選択だった。
(父上にも教えてやりたいものよな)
自分だけではない。ユウも同じ考えだったのだから。
もっとも、それを聞いたところで、博が納得するかどうかは別の話だが。
「では、行ってくるぞ」
「行ってきまーす!」
「二人とも、気をつけて行くんだよ」
すぐ後ろにいた博が、二人に声を掛けた。
さらに、二階からも由紀の声が降ってくる。
「行ってらっしゃい! 最初から張り切りすぎないのよ!」
「うむ!」
「はーい!」
二人は揃って返事をすると、並んで家を出た。
春の朝。
まだ僅かに冷たさの残る風が頬を撫で、道沿いの木々を静かに揺らしている。住宅街には、職場や学校へ向かう人々の姿が増えていた。
遠くを走る車の音。自転車のベル。家々から聞こえてくる、朝の生活音。
どれも、昨日までと変わらない景色だった。
それなのに、マオにはどこか違って見えた。
昨日は入学式。専用校舎に案内され、担任の千葉から学校生活について説明を受けた。ハンタースマホやスマートウォッチも支給された。
だが、それもまだ始まりにすぎない。
今日から、いよいよ本格的な授業が始まるのだ。
(さて。今日は何を教わるのであろうな)
ダンジョン。武器。魔法。ハンターとして必要になる知識と技術。
まだ知らないことが、山ほど待っている。
昨日の説明を聞く限り、決して安全なことばかりではない。だからこそ、学べることは一つでも多く吸収しておきたかった。
「マオ、今日って何するんだろうね?」
隣を歩くユウも、同じことを考えていたらしい。
「さての。予定表には動きやすい服装としか書かれておらぬからな」
「やっぱり運動かな?」
「可能性は高かろう」
「実技だったらいいね!」
「うむ。我も楽しみぞ」
二人は顔を見合わせて笑った。
もっとも、昨日の千葉の説明を考えれば、いきなり武器を持たせてもらえるとは思えない。まずは基本的なことから始めるのだろう。
(まあ、それも含めて楽しみよな)
「マオ、早く行こう!」
「うむ!」
ユウが少しだけ歩く速度を上げる。マオも隣に並び、同じように足を進めた。
向かう先は、いつもの駅。そこから電車に乗り、昨日入学したばかりの学校へ。
通い慣れた道の先に、新しい日常が待っている。
(我、期待!)
春の柔らかな日差しの中、二人は並んで駅へと歩いていった。




