23 論政
雨だれが瓦の縁を刻み、前庭の土は黒く沈んでいた。香を焚いても湿りは払えず、簾の影を濡れた風がすべる。楊阜は少府の印綬を帯びてから、こうした日の空気に敏くなった。天の色が変わると、政の綻びもまた人の目を避けて伸びる。槌が都のあちこちで鳴るほどに、民の背は重くなる。
その朝、尚書台から急使が入り、西方の報が奏された。大司馬・曹真が蜀を討つため軍を進めたが、進軍のはじめに大雨が襲い、輜重が滞っているという。運ぶはずの穀は途中で止まり、役夫は濡れた荷を抱え、陣は前にも後にも動きにくく、日数だけが積もっているとあった。帛の図に引かれた道筋の上へ、ひとすじ墨を落としたように、雨の名が記されている。
楊阜は几に向かい、筆の穂を揃えた。吉兆を得てもなお身を慎んだ古の君を思う。まして災いのしるしを見て、心を緩める道理があろうか。彼は言葉を絞り、奏を立てた。
『昔、文王は瑞を得ながら日暮れまで食を惜しみ、武王も兆しに驚き恐れて徳を修めました。まして災異のあるにおいて、なお恐れぬことはありませぬ。今、険阻の山谷にて軍は雨に滞り、日数を重ね、運びは尽き、労費は積もっております。進めば功なく、退けば道を失えば、兵を率いる道にあらず。難を見て退くは軍の要、願わくは兵を収め、民力を惜しみ給え。』
奏は内へ送られ、朝議の坐にも掛けられる。諸臣のあいだには、声を潜めた評が走った。勢いを失えば蜀は侮る、と言う者がある。いや、山谷に兵を捨てるは敵に利を与える、と言う者もある。楊阜はそのどちらにも与しなかった。ただ、兵の足もとにある泥こそが、今の天意を告げている。
曹叡は几の前に坐し、群臣の言を聞いた。帷の外では雨が細く鳴り、殿の梁の新しい漆が湿りに光る。遠い山の雨であっても、都の一椀の粥の薄さにまで届くと知る眼である。
「大司馬の軍を、谷に困らせておくべきではない」
決は早かった。兵を惜しむのは情ではない。国の根を守る算えである。中書の官が膝を進め、詔の文を起こしはじめた。退却の二字は、勝ち負けの札ではない。無益な傷を増やさぬための刃止めである。
楊阜は深く拱手した。都の槌はなお鳴りやまず、遠い山の雨もまだ止まぬ。だが、天の戒めに耳を傾けるうちは、国の骨は折れぬと信じて、彼は袖を正す。
詔が西へ走ってから数日ののち、尚書台に諸官が集められた。曹叡は、民に不便を与えている政の筋をただし、改むべきところを挙げよと命じたのである。殿の几には訴牒が積まれ、符の写しが重なり、倉の出納の札が散った。役の期日に追われる里の嘆きが、書簡の上で乾かぬままに残る。
議は細事から始まった。徴発の順、符の煩わしさ、役の割り当て。ある者は、法をさらに細かくし、吏の手を増やせと言う。ある者は、咎を重くして怠りを防げと言う。理は通って見えても、民の肩に乗る重さは軽くならぬ。楊阜はしばらく黙して聞いた。都では条が伸びるほど、己がよく治めたと思う口が増える。だが条文は鍬を振らぬ。鍬が止まれば、兵も都も飢える。
やがて楊阜は声を上げた。
「国家を治むる要は、賢を用いるにありましょう。国を興す本は、農を勧むことです」
曹叡の眼が向く。楊阜は続けた。
「もし賢を顧みず、私情で官を埋めるようなことがあれば、それだけで国の政は傾きます。また、宮室を広げ、台楼を高くして、ただ壮麗を競うなら、民の手を奪い、耕す時を失わせましょう。さらに、工匠が本の業を捨て、奇巧に走って上の欲を悦ばせるようになれば、国の土台そのものが傷つきます。その上、文官どもが形ばかりを尊んで実を知らず、煩わしさを好み、苛酷を愛するなら、民は日々追い詰められるばかり。孔子も申されました。苛政は虎よりも猛なり、と」
堂のどこかで袖の擦れる音がする。楊阜は、さらに言を添えた。
「法を重ねれば治まる、とお思いなら、それは咳する者に鎧を着せるようなものにございます。鎧はいかに立派でも、息が詰まっては病は増すばかり。まず要るのは、人でございます。公卿ならびに郡国に命じ、賢良にして正直、質素にして実直なる者を挙げさせ、これを用うべきに存じます。これこそ賢を求むる一つの道でございましょう。人を得れば、法は軽くとも行き届きます。人を失えば、法は重くなるほどに、かえって乱を生みます」
曹叡は几の上の巻を押さえ、しばし黙してから顔を上げ、諸官を見渡す。その眼差しには、退く軍に詔を下したときと同じ堅さがあった。倹を励み、役を乱さず、薦挙の札を急げと命ずると、堂の内が少し締まる。
だが、楊阜の胸の石は軽くはならぬ。外の政を正しても、内が澄まねば、また別のところで民の声は薄くなる。声が刃になる前に止めねばならぬ。
灯の匂いが廊に残り、吏の履は音を立てずに行き交った。尚書台で外の政を論じた舌を、楊阜はそのまま内の闇へと向ける。農を奨め、役を軽くせよと言っても、禁中に幸を得ぬ女が溜まり、衣食の費が積もるなら、倹の言は空を切ろう。内は国の根に近い。枝葉のみを気にかけて根を腐らせれば、歌舞と槌の音のうちに飢えが育つ。
楊阜は後宮の数を減ずべしと奏したのち、御府の吏を召し出させた。簿を抱えた小吏が進み出て拱手する。面は利き、言は滑らかで、旧例を盾にする匂いがあった。殿の柱の陰には、様子をうかがう眼がいくつも伏せられている。
「禁中にいま幾人ある。幸のある者、ない者、別に記して申せ」
吏は一瞬ためらい、やがて首を垂れて言った。
「禁中のことは秘と定められております。数を外に出すことはできませぬ」
楊阜の眉がわずかに動いた。
「秘を守るのは、国のためか、身のためか。陛下のための秘なら、なおさら九卿に隠す道理はない」
吏は答えず、ただ旧規を繰り返す。廊の陰では、近侍たちが息を潜める。楊阜は席を立ち、杖を取らせた。打てと命じたのは、怒りからではない。口を閉ざすことが規となれば、規はすぐ欲の衣に変わり、誰も責を負わぬ。
十に届く頃、吏の唇がかすかに震えた。楊阜は杖を止めさせて叱る。
「国家が九卿と秘を分かたずして、小吏とだけ秘を守るということがあろうか。上に告げるべきことを告げぬのは、忠ではない。規に隠れて国を損なうは、規を守るにあらず」
吏は額を地に擦りつけた。傍らの吏は目を伏せ、書吏の指は震えて書簡の端を押さえた。打たれた者の痛みよりも、打たせる理が刺さるのを、みなが知っている。楊阜はそれ以上追わず、ただ簿を出せと命じた。




