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24 雨霖

 雨が、廊の瓦を絶えず叩いていた。歩を進めるたび、履の底に冷えがまとわりつく。堂の灯は明るいが、そこへ集う声はどれも乾き、言葉が先に立った。


 朝議があるたび、楊阜は席を正し、奏すべきことを奏した。利を急ぐ策よりも、まず民の息を支えよ。役を増やすより先に、人を得よ。宮の外で汗を流す者の骨は、広い殿の梁よりも先に折れる。西方で見た飢えと乱れを、あたかも今のことのように引き寄せ、天下の綻びを指でほどくように論じる。札と印が増えれば治まると思う者には、法の重さがかえって人を潰すと諭した。新しい禁を立てるより、悪を止め、善を励ます道を定めよと。


 言い終えても、返るのは沈黙か、取り繕った同意である。席を隔てて聞く者の眼には、関心の色が薄い。日が移れば、また別の議が起こり、前の言は札の重なりの下へと置かれる。楊阜はそれを見て、胸の内で怒りに任せぬよう歯を食いしばった。怒りは言を濁らせ、濁った言はただの私情になる。私情のために立っているのではない。天下のために立たねばならぬと、己に言い聞かせる。


 夜半、尚書台の灯が残るあいだ、楊阜は筆を取り、上奏を繰り返した。言を尽くしても、返ってくるのは先延ばしの書簡である。そこで楊阜は、さらに別の文を添えた。己の才は浅く、責に耐えぬ。官を解き、郷里に退かせよ。そう願い出たのは一度ではない。


 曹叡が顔を上げた。その眼の奥には若さの鋭さがあり、国を重く担う疲れも滲んでいる。楊阜は拱手し、なお言を継いだ。己の言が容れられぬなら、それは己の罪である。罰として退けよ、と。だが詔は下らず、次の朝議がまた来る。


 廊へ出ると、雨はさらに細かくなっていた。濡れた袖を払う官吏が行き交い、ひそひそと笑う声も混じる。老臣の頑と呟かれるのが聞こえぬではない。楊阜は聞こえぬふりをして歩みを遅くした。責を果たせぬまま席に留まることが、もっとも恥であると知りながら、なお退けぬのは何ゆえか。


 石の上に立ち止まると、雨だれの音が問いを重ねた。己が守るべきものは、いまも同じか。守れぬものを、守ったと言い募ってはいないか。ふと、遠い堂の灯と湯気が胸の底に差してくる。あの夜、杯の間に沈黙が落ち、みなの眼が己ひとりに集まったことを、雨が呼び戻した。


 雨は絶えず瓦を刻み、洛陽の敷石は水を吸って黒く沈む。冷えは足もとから上り、袖の端まで重くした。戻らぬものの影が、雨の筋とともに胸を撫で、痛みが柔らかく形を変えていく。


 閻温が問うた。


 「義山殿、許の酒はどうであった」


 声は軽く聞こえたが、その眼は都の匂いを真っすぐに量っていた。


 「酔うほどに飲む暇はございませんでした」


 楊阜がそう答えると、卓はいったんほどける。趙昂の笑いが梁に当たり、尹奉の肩が小さく揺れ、若い楊岳と楊謨はその笑いに救われるように杯を上げた。だがほどけた糸はすぐ、韋端の呼び声に引き戻された。


 「義山」


 その一語が、別の夜へと形を変える。湿った土の匂いと血の生臭さが混じり、遠くで弓弦が鳴った。閻温の声が、空気を裂いて走る。倉を守れ、城を守れ、心折るな、と。声が消える瞬間の、周りの息の止まり方を覚えている。誰もが、その声が命を縮めると知っていたからだ。


 さらに韋康の顔が、灯の下で沈む。几上の印の冷たさを掌が知り、眉間の皺がほどけぬまま、民の顔が離れぬと言った。節のために万人を枯らす主ではあるまい、と。言葉は柔らかいが、選ぶ道は鋭かった。楊阜はその鋭さを、後になって何度も思い返した。守るとは、ただ固く閉じることではない。折れる時を選び、折れたのちに何を背負うかを選ぶことだと。


 母の叱咤も、声より先に姿が浮かぶ。廊の暗がりに立ち、骨ばった掌が一度空を切った。約を破って笑う者の前で黙すな、と。あの一振りが、胸の内の迷いを押し出した。旗を立て、兵を動かし、泥の上へ足を置いた。七本の旗が折れるたび、血の飛沫が甲の隙に入り、骨へ沁みた。倒れた名を呼ぶことすら、喉が許さなかった。


 洛陽の雨は止まぬ。楊阜は濡れた袖を押さえ、息を細く吐いた。守ると誓ったものは、いまも胸にある。だが言で守ろうとするたび、あの夜がよみがえり、己の言が届かぬことばかりを思い知らされた。雨だれの音が、遠い堂の火と混じり合って、答えのない問いを繰り返す。


 雨は夜になっても細く降り続いていた。楊阜は几上の文を一つ一つ巻き、封を改める。辞を願う上奏も、その中にあった。だが、札の山は翌朝にはまた積もり、言の届かぬ重さが増してゆく。


 翌日、朝議に召される刻限が来た。楊阜は衣の裾を払い、雨の匂いの中を歩いた。堂では曹叡が御坐に坐し、群臣の言はいつもより早く流れる。改めるべきことは多く、決すべきことも多い。楊阜はひと息置いて奏した。民の力は尽きやすい、宮室を広げるより倉を厚くせよ。曹叡は眼を上げ、しばらく黙す。


 「義山、そなたの言は朕も忘れぬ」


 その声は柔らかいが、詔は下らなかった。楊阜は拱手して退く。許されぬ辞を抱えたまま、なお坐を去れぬ。それが国のためか、己のためか、見分けがつかなくなるのを怖れた。雨の中を歩むほど、冀の夜に置いた言葉が遠くなる。


 その日の暮れ、廊を渡る途中で足が止まり、手から札が一枚落ちた。拾おうとして腰を折った拍子に、目がかすみ、雨音が遠のく。左右の者が駆け寄る声がしたが、耳には入らぬ。次に覚えたのは、灯の揺れがにじみ、墨の匂いが薄く漂うことだけである。詔はまだ下らず、辞を許されることもないまま、楊阜は戻らなかった。


 訃が朝中へ届き、几上に未だ朱を入れぬ奏案が残っていると伝えられる。諫めた言の多くは、そのまま路の塵に紛れた。だが、言を置いた者の胸には、採られぬことを恨むより、採られぬままでも置かねばならぬ務めがあった。


 夜、屋根を打つ雨だれの調べは途切れず、ふと遠い山の雨音が重なる。冀の堂の灯、武都の谷を渡る湿り、地に臥した旗。戻らぬものは戻らぬまま、なお生き残った者の務めが残る。雨は洛陽の石を濡らし、同じ音で、あの西方の土をも打っていた。


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