22 切諫
槌の音が、朝のうちから絶えなかった。木を打つ響きは宮中の廊へ滲み、石を運ぶ声は門外の市にまで波を立てる。梁を担ぐ役夫の肩には汗が光り、監作の吏は札を手にして材の数を改めていた。新しい殿舎の骨が、日ごとに空へ伸びてゆく。
楊阜が将作大匠の印綬を受けたのは、その騒ぎのただ中である。工を司る官に上がれば、褒美と見えもする。だが彼には、門を守ったときと同じ重さが胸に沈んだ。築けば築くほど、民の力は削れる。削れたものは目に見えぬところで、まず飢えとなり、怨みとなり、やがて刃となる。乱世でその順を幾度も見てきた。
工事場の端では、材木の香にまじって、香油の匂いがふと流れた。禁中へ召し入れられる女たちが、隊のように連れられていく。年若い顔が多い。目を伏せ、衣の裾が揃って動く。楊阜は歩みを止めず、ただその列の後ろに付いた吏の目つきを見た。欲が法を追い越すとき、まず人が物のように扱われる。
ほどなくして、御苑の方から鼓角が鳴った。狩猟の出立であると聞く。衛士が道を塞ぎ、近侍が声を張る。帝の御車が過ぎるたび、絹の擦れる音が残り、役夫の槌が一瞬黙った。楊阜は膝を折り礼を尽くしつつ、心の底で数えた。今、外には呉蜀があり、軍は境に張りついたままである。都の槌が、戦の鼓より先に鳴る世は、危うい。
その日の暮れ、空が急に裂けた。雲が低く落ち、雨は矢のように叩きつけ、雷電が幾度も地を揺らした。翌朝、城門の外の路に、雀や小鳥が折り重なって死んでいると報が入る。水路の溝にも、濡れた羽が詰まっているという。人の胸にも、見えぬ溝がある。そこに何が詰まりはじめたのか。
吏が簿を抱えて膝をついた。
「義山殿。梁材が不足いたしております。なお、上より急げとの仰せにて、諸郡へ更に木石を求むようにと」
楊阜は簿の文字を追い、指先で一行を押さえる。武都で水路を掘らせたとき、彼は必ず畑と口を先に見た。都の工は、目に映える殿を先に見がちである。遠方の里にまで、若い娘が調遣されたと噂が渡れば、民心は塵のように立つ。
楊阜は作坊の簿を閉じ、灯の下に坐した。冀の城門が開き、主君らが斬られたあの日以来、彼の中には一つの誓いが残っている。止める言葉が届かぬと悟ったとて、言わねばならぬ言がある。厭われてもよい。諫死を賜ってもよい。後の世が、同じ門を開かずに済むならば。
外では雨がなお瓦を叩いていた。楊阜は墨をすり、上奏の端を起こしはじめる。
灯が短くなり、油の匂いが濃くなった。楊阜は筆を置かず、硯の縁を指で拭い、また一行を引く。工の札、徴された女の名簿、狩の支度の触れ、どれも別々の札に見えて、芯は一本でつながっている。欲が先に立てば、法は飾りになり、飾りはやがて刃を呼ぶ。
窓の外では、夜更けても材を挽く音が止まなかった。急げと命が降りたのだろう。役夫の息は薪の煙にまじり、濡れた土の匂いが廊へ漂う。楊阜はただ、筆の先を揃えた。災いは雷鳴そのものではない。雷鳴を呼ぶような政のゆがみである。幼いころに読んだ経の句が、今は骨に沁みて鳴った。
翌朝、起草した奏を清書して封をし、掌奏の者に託した。文は長く書けばよいものではないが、言うべき柱は抜かぬ。楊阜は要を残して、こう結んだ。
『明君が上にあれば、臣下は力を尽くして諫めるべきであります。堯舜は広く諫言を求め、大禹はみずから宮室を卑くして倹を示し、成湯は旱に遭えばその咎を己に帰し、文王は内を慎んで家を正し、もって国を治めました。漢の文帝もまた倹を先として、衣食を飾らず、天下の力を惜しみました。
伏して思いますに、陛下は武皇帝の遺業を承け、文帝の基を守り給うお方であります。古の善を鏡として末世の驕りをよく鑑みるべきです。政の善し悪しは、つまるところここに尽きます。善政は節を立てて民力を惜しみ、悪政は欲に従って事を起こします。
盛衰の理を思えば、桓・霊の二帝がもし高祖の法と文・景の倹を守っていたならば、太祖がいかに多才であっても、世に出る機はなく、陛下もまた今日の尊位におられなかったはずです。
今、呉蜀いまだ平らがず、軍は外に在ります。願わくは三たび思い、狩猟を慎み、奢りを去って倹に帰り、土木を節し、徴発をやめ、後宮の数もまた考慮するよう願います。
このごろ、天は暴雨を降らせ、雷電しきりに鳴り、鳥雀すら死しております。これは天地が王者を子と見て、戒めを示すしるしにほかなりませぬ。漢の孝文帝は、惠帝の美人を放って嫁がしめ、内を澄まして外を安んじました。しかるに近ごろ、小女の調遣が遠近に聞こえ、聞く者は顔をしかめております。書に曰く、九族和すれば万国協ぶ、と。内を正して外を安んずる道は、まずこの一条より始まります。
臣、恐懼し戦慄して、伏して言上いたします。どうか陛下、深くお汲み取りくださいますよう。』
奏が去ると、楊阜は工坊へ戻り、材の数と工の段取りを改めた。政を諫む筆と、工を司る札とは、別の道ではない。無駄を削り、要を残す。その理は同じである。だが都の空気は軽く、口は早い。夜のうちに、楊阜が上へ刃を投げたという噂が走った。
数日を経て、宮中より召があった。楊阜が殿へ向かう廊は磨かれ、柱の漆は新しく、香の匂いが衣に移る。工事の槌が遠くから追いかけてくるように響き、帷の陰には女の影も見えた。華やかさは目を奪う。だが目が奪われると、聞くべき音が聞こえなくなる。
楊阜が殿の端に控えると、几の前で中書の官が詔を開き、読み聞かせた。
「密表を拝覧した。古の聖王・明主を引き、闇の政を諷して諫むるその言、切にして迫るものがある。まことに我が過ちを補わんとする忠のあらわれである。卿の苦言を得たことを、朕は喜ぶ。これを深く戒めとし、みずから正しき道に就くべし」
読み終えると、殿の気配がひと息動いた。近侍の眼が走り、誰かが咳を押し殺す。楊阜は深く拱手した。喜ぶとの言葉が、胸の奥をかえって冷やす。だからこそ、返答の温さに縋らず、ただ次の一筆を胸の中で研いだ。
廊を下がると、柱の影は細く、灯は昼のように明るい。都は華やかであるほど、ひとたびゆがめば、ゆがみもまた遠くまで届く。雷雨のあとに雀が落ちた溝の報を、彼はすでに工坊へと伝えていた。異変をうやむやにしては、警めがただの噂に沈む。
約束など、人の欲が濡らせば容易に滲む。だから、筆を取る。帝の耳に届かずとも、文が残れば、のちの誰かが読む。内が和せずして外は安からぬ。国は一人の好みで傾くが、史は一人の好みでは消えぬ。
将作の札は几上に戻り、槌の音はまた都の骨を刻みはじめた。吏は目を伏せ、工匠は声をひそめる。諫言の名は人を遠ざけるが、遠ざかる距離ほど、己の筆先は澄む。筆は軽くならぬ。楊阜は袖を正し、工の無駄を削る手を止めぬまま、次の上奏に備えて墨を研いだ。雨は上がっても、空のどこかにまだ雷の匂いが残る。残るべきは殿ではない。戒めである。




