21 徴召
武都の話は、人の口から口へと渡っていった。商いの者が関を越えるたび、郡の秤が狂わぬこと、訴えが刃にならぬこと、贈り物が門前で返されることが、珍しげに語られたのである。
やがてその名は、巻の間をすり抜けて、朝廷の耳にも触れた。宮中の廊は磨かれ、衣の裾は音もなく流れ、言葉は慎ましさを装うが鋭い。洛陽の宮もまた、戦の煙から遠いところで、日々の札を積み重ねている。
その日、几の前に曹丕が坐していた。父・曹操の跡を継ぎ、帝の位に就き、天下の重みを肩に受け取ってから、眉間の皺は深くなっている。近習が奏す。
「劉子揚殿、参られました」
招かれたのは劉曄であった。常に先を読み、問いを受ければ過不足なく答える男である。
「武都の楊義山とは、いかなる男だ」
劉曄は一礼し、言葉を急がぬ。彼はただ、見聞の筋を確かめた。
「辺郡の治は、刃が来る前に民心を鎮めております。義山殿の政は、法を立てても人を折らず、理を明らかにして争いを収め、札と簿は乱れず、物は受けずとのこと。武都の民は、眠れる夜が増えたと口をそろえるそうです」
曹丕は黙って聞き、やがて指先で几を軽く叩く。
「涼州の乱の折に名を立てたと聞いてはいる。だが名は風に過ぎぬ。今の評は、骨のある話だな」
劉曄は言を継いだ。
「武都太守として十余年、境を踏み外さずにおります。人の心は飢えれば賊となりますが、義山殿はそこを断ち、郡を守ったのでございましょう」
曹丕の目が細くなる。都には人材が溢れているようで、肝心のところで足りぬ。言葉巧みな者は多いが、手堅く地を支える者は少ない。
「召して使うべきだな」
口にした途端、胸の底から息が上がり、曹丕は一瞬唇を結んだ。近習が顔色をうかがう。曹丕は手で制し、何事もなかったように言った。
「官を改めさせねばならぬ」
几の端に紙が置かれ、曹丕は筆を取った。召命の文は短くて足りるはずだが、字が半ばまで進んだところで、咳がひとつ喉を裂く。曹丕は墨の匂いを吸い直し、紙を押さえて言った。
「用意が出来ればここへ呼ぶ。今日はもう下がってよい」
命じおえると、劉曄は拱手して退く。廊を出ると、遠くで鐘が鳴り、都の空は澄んでいた。その澄みが、かえって人の命の脆さを映すように思われた。
曹丕が筆を止めた召命は、病の床の傍でほどなく途切れ、やがて都の内外に凶報が走った。天下の主は替わり、曹叡が位に就く。先帝の遺した未練のような札束も、朝廷の務めに押し流されていった。
武都の吏舎では、幾たび目を通しても同じ山の輪郭が窓に掛かっている。楊阜が郡を預かって十余年。秤の刻みは改まり、争いは声を潜め、贈り物は門前で戻るのが習いとなった。だが境の地は油断を許さぬ。人の心も道も、手を放せばすぐに乱れる。
ある日、伝吏が戸口に止まり、恭しく書簡を差し出した。
『武都太守・楊阜を徴し、城門校尉に拝す。』
書簡を受け取る手に、わずかな重さが伝わった。伝吏が言う。
「都では、先帝も義山殿の名を聞き、召さんとしたと申します。だが、その文は果たされず、今上が改めて」
楊阜はうなずいた。帝の胸の内を量るほど、己は軽くはない。ただ命が下れば、受けて務めを尽くす。それが乱世を越えてなお続く道である。
楊阜は吏を集め、倉と戸と水路の簿を一つずつ確かめ、印綬の受け渡しを正した。言葉は少なく、しかし曖昧を残さぬ。民にも告げ、訴えの道を絶やさぬよう里正に命じた。郡の者が都の名を聞いて浮き足立たぬよう、相も変わらず升と札を厳にせよと言い添える。
出立の朝、門前に老爺と女が立っていた。かつて水の争いを鎮めた里の者である。女は帛の包みを差し出しかけ、やはり引いた。受け取られぬことを知っている。老爺が拱手し、言った。
「長い間、ありがとうございました。義山様への恩を、この地の民は決して忘れませぬ」
楊阜は礼を返し、馬に乗った。褒め言葉は胸を暖めるが、暖まりすぎれば手が鈍る。振り返らずに道を取り、山の影が薄れるにつれ、土の匂いが変わっていく。関を越えるたび、吏舎の札の字も、声の調子も、どこか軽くなる。軽さの裏にある怠りを、彼は見逃さぬよう胸の紐を締めた。
洛陽の門は高く、石は冷たかった。人の波が絶えず、誰もが急ぎ、誰もが己の用を抱えている。任を受ける殿に進むと、詔が読み上げられた。楊阜は膝を折り、拱手して受ける。城門は人の出入りを守るのみならず、国の心を守る。辺の郡で積み重ねた札の重みを、ここでも乱さずに抱くほかなかった。殿を下がると、城門の鎖の鳴る音が遠くから響く。その音は武都の水桶の鳴りとは違うが、守るべきものの理は同じである。楊阜は袖を正し、門の務めへ歩を移した。
鎖の鳴るたび、人の息は門の下で折れ曲がった。符を持つ者は符を出し、札を持つ者は札を改める。楊阜は城門の楼に立ち、往来の列を見下ろした。都の道は広い。だが広いほど、隙もまた生まれる。辺郡で覚えた癖は抜けぬ。顔色の変わり、荷の重さ、声の震え、どれも札に先んじて口を割る。
夜明けのうちに、吏が簿を抱えて上ってきた。昨日の出入り、禁物、捕縛した者の名。楊阜は筆を取らず、まず言葉を正した。書きぶりが軽ければ、罰もまた軽くなる。軽さはやがて礼を削り、礼が削れれば法も痩せる。責めは人を折るためではなく、乱れを芽のうちに摘むためにあると、彼は自らに言い聞かせていた。
午の刻に近いころ、外の道の気配が変わった。近侍の声が先に走り、甲の列が道を正す。御車の影が現れ、綺羅の匂いが風に混じった。楊阜は礼を尽くして頭を垂れる。
曹叡が降り立つ。若き帝の顔は白く、笑みの端に慢りの影が宿った。頭には繍帽を戴き、身には縹綾の半臂を纏っている。暑さを避ける仕立てであろう。だが朝廷の道は、好みで渡るものではない。法服は、帝を縛るためではなく、帝の威を礼のうちに立てるためにある。
列が門をくぐろうとした刹那、楊阜は一歩進み出た。誰かが止める暇もない。
「それは礼の上では何の法服でありましょうか」
近侍の肩が揺れた。衛士の指が柄に触れ、吏の筆の音まで止む。曹叡は足を留め、楊阜を見た。怒りも笑いも出ぬ。ただ、返すべき言が見つからぬ顔である。帝は唇を結び、黙したまま車へ引き返した。門の内外が一度に冷え、絹の擦れる音が残る。
その夜、宮中のあちこちで囁きが生まれた。武都から来た城門校尉は、帝の前でも目を伏せぬ。楊阜はその声を耳に入れても顔に出さず、翌日も札を改め、符を照らし、出入りの者の息を量った。洛陽の空は高く澄み、華は眼を奪う。だが眼を奪われた瞬間に足が転ぶ。辺郡の土の匂いを胸に留めるのは、奢りに近づかぬためであった。
やがて噂は習いとなった。法服を整えねば、曹叡は楊阜の前には姿を見せなかった。門は高く、石は冷たい。だが礼が崩れれば、人の心が先に崩れる。楊阜は袖を正し、門の鎖が鳴るたび、守るべきものを守るのみであった。




