20 空虚
黄初三年。武都の村々は、朝のうちから人の息で温まっていた。山の道を下りてきた荷駄が、門前で縄をほどかれ、粟の袋や麻の束が土の上に並ぶ。吏が札を改め、量りの目を確かめると、商いの声はただ途切れずに続いた。騒がしさが薄いのは、ここ数年、夜の戸を固くする者が減ったからである。
楊阜は吏舎の几に向かい、朝から訴牒の束を繰っていた。山間の郡では、争いが起これば刃が先に立つ。だが十余年、印綬を預かってから、争いの筋は変わった。水をめぐる口論には里正が先に入り、田界の揉め事には証の札が立つ。賄いの墨を混ぜた文が通らぬよう、書吏の手は日毎に確かめられた。
庭では役夫が倉の鍵を受け渡し、粟の出入りを簿に記す。欠けた升は改められ、貸し付けの札は抜けなく綴じられていた。羌や氐の者が町へ来ても、剣の柄に手が寄らぬ。言葉が通じぬときは、間に立つ者がいて、値は揉めても刃にはならぬ。小さなことに見えて、その小ささを保つのが太守の務めであった。
楊阜は筆を置き、戸口の帷越しに外の声を聞く。山風は乾いて、土の匂いを薄く運んだ。ここは辺境の地である。だが、辺境だからこそ、明日の暮らしが今日と同じであることが、どれほど重いかを知っていた。彼は簿を巻き、次の札を取り上げる。
昼を過ぎると、門の外の道を見張る卒が交代し、土塁の上に影がひとつずつ増えた。山峡の向こうは蜀の地へも通じ、緩みはすぐ禍に通ずる。楊阜は功を立てた者に酒を賜るより、怠けた者の名を簿から外す方を好んだ。軍の糧は足らせ、民の薪は奪わぬ。それだけのことを、言葉より先に吏の手で示せと、繰り返し命じてきたのである。
夕刻になると、市の片隅の学舎から子らの声が起こり、影が長く伸びた。父が訴えを書けぬために損をするなら、子が字を覚えて家を救う。そういう話が、噂ではなく日々のうちに混じり始めている。楊阜はその声を聞き、顔には出さず、ただ胸の底で一つうなずいた。
日が落ちれば、城門は早く閉じられる。だが、閉じる音に怯えは少ない。門の内側では井戸の綱が鳴り、炊煙が細く立ち、灯火が家々に点った。遠い谷に狼火が上がることもあるが、それでも人々は翌朝の畝を思って眠りに就く。その眠りを守るため、楊阜は今夜も几の灯を落とさず、簿の数を確かめ続けた。
吏舎の灯がまだ残るころ、戸口の帷がかすかに揺れた。伝吏が足を止め、土を払う間もなく拱手する。山道を越えた息が、言葉より先に冷えていた。廊の外では水桶が鳴り、夜番の卒が槍の柄を持ち替える音がする。積み上げた札の端が、風に触れてひとつ鳴った。
「蜀よりの報にございます」
楊阜は筆を置き、書簡を受け取った。印の形と封の癖で、どの道筋を辿ってきたかがわかる。封を割ると、書簡の面に短い文が並んでいた。
『馬孟起、病没す。年四十七。』
それだけのことが、夜気を重くした。楊阜の指は文の末で止まり、次の行を探すように書簡をなぞったが、何もない。戦に敗れて討たれたのでもなく、縛されて首を刎ねられたのでもない。病が骨を削り、息が尽きたとあるのみであった。
かつて冀の城壁の上から見た旗、夜の濠を渡った影、門前に晒された首級、怒号の中でいくつもの命が断たれた記憶。それらは、いつか自分の手で終わらせるべきものとして残っていた。追いつき、討ち、あるいは捕えて法に付し、死者へ顔向けをしてみせる。そうでなければ、血は収まらぬと、どこかで思い違いをしてきた。
だが、終わりは向こうから来た。しかも、刃ではなく寝所からである。聞き慣れた敵の名が、ただの一行になった。これほど軽い報せが、これほど重く手に残るとは、楊阜は知らなかった。
無意識に、楊阜の手が肋のあたりへ伸びた。古傷の痕は薄く硬い。痛みはすでにないのに、指先が昔の熱を探している。そこに触れても、胸の空きは埋まらなかった。敵を倒せば埋まると信じて積んだ歳月が、風にさらされた土塁のように、ただ形だけを残している。怒りは、いつの間にか政務の底へ沈み、沈んだまま腐りもしない。今夜、その底をそっと叩かれた気がした。
夢の中では、馬超はいつも鞍上にあり、追えば追うほど山の影へ溶けた。目覚めれば、追うべきは賊ではなく戸口の数であり、倉の鍵であり、道の崩れであった。現の務めが積もるほど、因縁は細く引き延ばされ、切る機会さえ奪われていった。討てぬまま老いることを恥と感じた夜もあったが、民の息を守ることが先と知り、恥を胸の奥へ押し込めてきた。
伝吏は息を殺して立ち、次の命を待っている。楊阜は顔を上げ、いつもの声で言った。
「ご苦労だった。退いてよい」
吏はうなずき、足早に去る。楊阜は一人残り、几上の筆を取り直したが、墨の面が不意に遠く見えた。馬超の名は、武都の子らが恐れを覚えるための名ではなく、もはや過ぎた刃の名になってゆく。そう思いながらも、楊阜の胸には、虚しさが降り積もっていった。
夜が深まると、戸は閉じられ、見回りの足も遠のく。楊阜は几の灯を落とし、書簡ひとつを袖に入れて廊へ出た。武都の城壁は低くても、ここで眠れる者が増えたことを、耳が先に知っている。泣き声が夜ごとに立つ家も減り、夜番の卒も、いつかのように槍の柄を握り締めはせぬ。
彼は門楼の脇に立ち、じっと東の方を見た。幾重もの山が重なり、その向こうに冀の地がある。かつての郡の土、城門の石、吏舎の堂。戦場に散った名は、書に記せば短いが、家の灯が消える長さは計れぬ。
書簡を取り出し、巻を開く。文は短い。敵の名も、結句はこれほど短くなる。あの男がついに馬を降り、剣を置いた。それだけである。
報せを告げたからといって、何が戻るでもない。首を取っても戻らぬものは、病で死んでも戻らぬ。だが、因縁の糸が、ここで切れたのは確かであった。怒りは燃え尽きもせず、慰めにもならぬまま、ただ跡を残している。己の身体に残る痕と同じである。触れても痛まず、見えぬ所で、なお在ると知れるだけのもの。
それでも、生き残った者は、息を守らねばならぬ。戦場で馬超を見上げた日の執念は、いまは郡の戸口と倉の鍵へと形を変えている。楊阜は東の闇に向け、一言心で言い添えた。義と誠を持って、残りの命は民と主君に捧げる。死者への言葉は、胸の底に沈める。沈めたまま、折れる日が来ぬように。




