旅の始まり
2話です。
世界が終わったにしてはやけに心地よい感触が、青年を包み込んでいた。彼が寝転ぶ地面は柔らかく、自分が望めば何処までも沈んで行ってしまいそうな程で、どうやら体は薄い布のようなものが被せられている。
首元に置かれている何かは少し硬いが、それがより寝心地を良いものにしているようであった。
やわらかい風が頬を撫でる。耳を澄ますと、遠くで鳥の鳴き声が鳴っている。また、微かに人の息遣いのような音も聞こえる。位置は、とても近い──。
「───ここは……」
切れ長の眼を僅かに開き、彼は周囲の様子を首を動かし、確かめる。
どうやらベッドに寝かせられていたらしい。感触はとても良いものだったが、いざ見てみるとそれはとてもくたびれていて、完全に弾力を失った貧相なベッドだった。傍らには青い髪の少女が、心配そうに青年を見つめている。看病をしてくれていたようだ。
ガンガンと痛む頭を抱えながら、彼は身を起こそうとする。
「あ、まだ起きちゃだめよ! 結構強く頭を打ったようだったから……」
「俺は……」
額から頭の側面部、頭頂に至ってに軽く触れ、青年は自分の頭に包帯が巻かれていることを理解した。
他には特に外傷は無い。
「あなた、魔物に襲われていた私たちを助けてくれたのよ。それでお礼を言おうと思ったら、いきなり頭を抱えて倒れちゃって……。その拍子に頭を打ったの。とっても強くね」
「お前……たち……」
水面の波紋のように揺らぐ視界で自分の置かれている空間内を見渡す。
ここはどうやら家、と言うほど大層なものでも無く、最低限の材料を以て建てられた小さな小屋のような建物らしい。机とベッドを置いたらいっぱいっぱいになるほど狭い室内に、少女が1人と自分を含めて男が3人。
1人は金髪をオールバックにした目付きの悪い青年。修行僧を思わせる衣を纏っている。短い袖から覗く筋肉質で締まった両腕と、目の下に遺る傷跡から相当の手練であろうことが察せられる。
もう1人は、長い黒髪にとんがり帽子を被ったコートの青年。さっきの方とは真逆の優しい顔つきだ。装着しているグローブには曇った銀色の鎖が巻かれている。
よく見ると表面に何やら刻まれていることから、唯のオシャレという訳でも無さそうだ。
この2人に先の少女を合わせた3人で旅をしていたところを、どうやら自分は助けたらしい。
と記憶を掘り起こしてみるが、どうにも記憶が曖昧だ。打ちどころはかなり悪かったようである。
「状況は大体理解して貰えた? 私はセリナ。金髪の方がシンで、とんがり帽子はロックよ。さっきはどうもありがとう。危うく私たちの旅が終わってしまうところだった。貴方の名前は?」
「俺の名前は……名前、は……」
分からなかった。
脳という倉庫の中から、自分の名前というものだけがすっぽりと抜け落ちたような感覚。
頭を打ったからなのか、或いはそれ以前からか。彼はどうやら、自らの名を忘れてしまっている。それはよく分かった。
「まさか、さっきの拍子に記憶が……!?」
「……解らない。その可能性は高いけれど、アンタらを助けたときの記憶は薄ら残っている。直に鮮明になると思う。今自分がベッドに寝ていることも、それが椅子で、これが机なのも解る。ただ、名前と、アンタらの会う前の記憶が無い。元からそんなもの無かったみたいに、空っぽなんだ」
「確かにお前はオレたちを助けた時からちょっと様子がおかしかった。元々記憶喪失って可能性が高いと思う」
そう言ってセリナの隣に立ったのはシンだった。
腕を組み、逆三角形の目の中から黄色の瞳で青年を見つめている。
睨んでいるようにも見えた。
「そうか……」
渇いた声を漏らし、青年は視線を落とす。
多少なりとも記憶が残っていて、自分が何をするべき、何処へ行くべきか。そんなことが分かっているのなら、何らかの感情と思考が巡る。しかし、ここまで手がかりが無いとなると、話は別だ。
自分が何をすべきなのか、何が出来るのか。全てが不明だ。行くあても無い海の中を永遠に泳いでいるような気分だった。
そんなふうに落ち込む彼を目にして、セリナが口を開いた。
「ねぇ、相談があるんだけど」
「……何だ?」
「キミ、私たちの旅に着いてこない? 私たちはね、とある伝説の魔導書を求めて世界中を旅しているの。まぁ、旅は始まったばっかりなんだけど。世界中を巡るわけだから、きっと貴方のことを知ってる人や貴方が知ってる場所にだって行くと思うの。それに、私たちは魔法使いとしてまだまだ駆け出し。だから、貴方みたいに強い人が居ると心強いの。どう? 良い提案じゃない?」
「アンタらと……一緒に……」
少しだけ考えて、彼はセリナへと顔を向けた。
脳裏に浮かぶのは、先刻見た夢のぼんやりとした記憶。黒い地面と、たくさんの建物が立ち並ぶ町。溶けた靴底。
これは全くの夢だと思っていたが、もしかすると、これは記憶なのかもしれない。
あらゆる手がかりを失った青年は、その夢を手がかりにすることにした。情景は曖昧だが、きっと見ればそれだと分かる。そんな気がするのだ。
一度助けたとは言え、見知らぬ他人である自分を助けてくれた彼女らとなら、辿り着けるかとしれない。泡沫のように儚い、あの夢の景色に。
「よろしく頼む」
細く白い手を、青年はセリナに差し出した。
それを見て嬉しそうにはにかみ、彼女は灰色のローブの袖から、人形のように美しい手を返す。
握手が固く交わされる。
見つめ合う二人の姿が、冒険の始まりを告げるのであった。




