溶けた靴底と崩れた空
第1話です。よろしくお願いします。
靴底が溶けていた。
自転車を漕いでいてどうにも足裏に違和感を感じていたのだが、靴底のゴムの部分が靴本体からズルりとズレていて、今にも乖離しそうな勢いであった。
ここ数日の気温は例年の夏の数段高く、高い日には人の体温のそれに限りなく近い数値を人々に叩き付けていた。その所為もあって火の上の鉄板が熱されるが如く、テニスコートは靴底の限度を容易く越すほどの熱を帯びてしまっていたのである。大学におけるテニスの授業に最後まで耐えていた靴底には頭が上がらない。
完全に剥がれ落ちた靴底をゴミ箱に投げ入れ、俺は玄関近くの洗濯機の中へ視線を落とす。
白い7分丈のシャツ。可愛らしいゼリー状のキャラクターがプリントされた紫色のパーカー。パンツが三着、Tシャツ二着。靴下は入っていない。どうやら入れ忘れていた様だ。
外はこの気温故に当たり前ではあるが、晴れている。目の奥に染みるほどに青い空に、肌を突き刺す極光が浮かんでいる。
スマホに映る天気予報は、少なくともこれから1週間は灼熱の日々が続くことを示していた。つまり、雨が降る予定は無いということだ。
ならば、洗濯物を干さねばならない。
濡れた服たちをむんずと掴み、軽快にカゴへと放り込む。
仄かに柔軟剤の香りがした。
母が使っていたものと同じものだ。
大学生になり、熊本に越してから直ぐに母と買い出しをしたとき、同じものを買ったのだ。
俺はこの香りを嗅ぐ度に、少しだけ、心地よいホームシックに浸ることが出来た。
愛してくれた両親を、愛した妹を。可愛らしいペットの鳴き声が聞こえてくるような感覚を覚える。
一人が好きだから、自分だけの空間と時間が好きだから、俺はホームシックになんてならないだろう。
高校生の頃のそんな予想は大学生になった今、ほぼほぼ的中という結果を俺の心境に於いて的中させた。
ほぼほぼ。%に起こせば85%と言ったところだろうか。
85%の予想通りと、15%だけの予想外。
それは冗長に続くことなだらかな日常と、仄かに甘く、柔らかい柔軟剤の香り。
多分、人生なんてそんなものなのだ。
現実は小説より奇なりなんて言葉もあるけれど、それは15%だけの予想外を、俺たちが大袈裟に捉えているだけなのだと思う。
これからの人生は何が起こるかは分からないけれど、きっと殆どは今俺が思い描く、寂しく乾いた予報通りだろう。
奇想天外な夢を想い、波乱万丈な未知を抱いた子供たちは、驚く程に平凡な大人になって、また夢に満たされた子を育む。
それの繰り返しだ。
きっと皆生きていく中でそれを知って、それでいて15%を期待して生きていくのだろう。
それは思いもよらぬ拾い物。それは焦がれることすらしなかった人との出会い。それは、家族を思い出させる優しい香り。
ハンガーを通した衣服を1つずつ、ベランダの物干し竿に吊るしていく。
マンションの5階から見える景色はそこそこ広く、多くの人々が見える。この中にも多分、彼らにとって15%が転がっているんだろう。
でも、俺はそれを観測できない。自分にとっての予想外は他人にとっての常識だったり、あるいは他人が既に予報の内に引き入れたことだったりして、誰しもそれを共有することは無いのだ。
万人共通の予想外なんて存在しないのだから、そんなことは当たり前だけれど。
それこそ、ノストラダムスの大予言が本当に起こったていたとして、それを85%の内に捉える人だって少なからず居る。
俺は───どうだろうか。
カゴに伸ばそうとしていた手を止め、ふと痛々しいほどの蒼に塗れた空を見上げてみる。
今あそこから恐怖の大王が降臨してきて、火やら何やらを吹いて世界を終わらせてきたとして、俺はそれをどう理解するだろうか。
驚き、恐れるだろうか。腰を抜かしてチビったりするんだろうか。それとも、どこかの国からのミサイルだと思って、戦争の始まりを予感するのだろうか。
「───馬鹿らしい妄想だな」
思わず呟き、俺は元の作業に戻る。
洗濯物を干し終わった後は、買ってきたカップ麺にお湯をついで、それを食べて、朝食で使った皿を洗って、トイレを掃除して、サークルに行って────。
「な、なんだアレ!?」
不意に声が聞こえた。
首を傾げて当たりを見回してみると、どうやらお隣さんが叫んでいたようだ。
彼の声に続くように、眼下の人々も続々と声を上げ、皆一様にその手を空へと掲げ、人差し指で何かを指している。
なるほど。
空を見上げ、それを見て、俺はそんな感想を抱いた。
青い空が割れていた。
綺麗に、蜘蛛の巣みたいなヒビを伴って割れていた。
そういえば、凍った水たまりを妹と一緒に割った時もあんな感じだった。
そう。妹、妹の────。
誰、だっけ。
あれ、分からない。
顔が、無い。脳裏に浮かぶ彼女には顔が無かった。
混乱している。恐らく、今の訳の分からない状況に、脳みそがイカレテシマッタノダ。うん。
大地が揺れている。
空のひび割れの間から、何やら大きなシルエットが見えた。丸く、そして凄まじく大きい。東京ドームだとか、ディズニーランドだとか、果ては日本よりも大きい気がする。
崩れ落ちた空の穴から、シルエットが少しづつ近づいているのが分かった。
あぁ、そうだ。
恐怖の大王の正体は月だったのだ。
23年越しに預言が的中したのだ。
そう、あの、預言者の、ノ………。
誰だったか。
月が落ちてくる。
空を砕き、大地を戦かせ、恐怖が来る。
なるほど。
俺がそう思ったのは、ふと窓ガラスに写った自分を見たときだった。
笑っていた。
とても強ばって気色の悪い笑みだったけれど、俺は笑っていた。
聞いているか、数分前の俺。
世界が終わる時、俺は笑うみたいだ。
とても下手くそに、哀れに、俺は。
笑うんだ。
笑う俺を他所に、崩壊は始まる。
空だけでなく、大地が、空気が、建物が、そして人が。ひび割れ、塵とかして行く。
全てが消え去り、白く、白く。
無くなっていく。全部、無くなっていく。
何時しか、俺以外の全てが、無くなった。
白い、白い、白い白い白い白い白い白い白い白い白い白い白い白い白い白い白い………世界が。
俺を包み込んでいた。
突然、誰かが俺の手を掴んだ。
細く、弱々しい手だ。
フードを深く被った誰かが、俺の手を掴んでいた。
綺麗な鼻筋と口、そしてちらりと見える白い髪だけは分かった。
「誰……だ」
呼び掛けに、それは答えない。
「行かなければ」
そのまま、それは言った。
しかし不思議なことに、それは聞こえた訳では無い。
脳に直接、判子でも押すみたいにその言葉だけを刻まれた気分だ。
「行くって、どこに」
「デルトワーツ」
「君は、そこに行かなければならない」
「彼が、待っている」
「は、はぁ?」
「デル……何? 彼って、誰だよ……」
「何か言えよ! 応えろよ……」
「おいっ!」
無言のフード人間に手を引かれ、俺は白くなってしまった世界を只管に歩き続けた。
不思議と疲れは無かった。
というか、足が止まることを許さなかった。
まるで生まれた頃からこうするべきだと脳が思い込んでいるように、俺はただただ歩き続けていた。
そしていつしか、俺は気を失った。




