第8話 勇者を救った英雄に
「大丈夫……大丈夫だ……、絶対に俺が守ってみせる」
トアルを励ますように、自分に言い聞かせるように、クラストは告げる。
温もりの消えつつある彼女の体は、息をするだけの死体のようだった。
フェゴールの起こした騒ぎを聞きつけ、押し寄せてきた魔族たちに見つかったクラストは、瀕死のトアルを引き連れて路地裏に逃げ込んだ。
すでに立つことすらできなくなったトアルを案じ、廃屋となった空き家に息を潜める。
雨が降り始め、腐った屋根から落ちた雨漏りが、肩を濡らす。
目に見えて衰弱する彼女を抱き寄せ、クラストは祈りを捧げた。
頼む……俺の命なんていくらでも差し出してやる。だからお願いだ……トアルを、彼女を助けてくれ……。
腕の中で息絶える命の儚さが、何もできない自分の無力さが、胸の中で堪え難い熱を持つ。
結局世界は残酷で、定められた運命の内側でしか息ができない。
何かに認められ、見出され、特異な個性を持って生まれる。
そんな人間でもなければ、世界を変えることなんてできやしない。
ちっぽけな正義だけを握りしめて、勇者である彼女を守ることなんて、土台無理な話だった――――。
「――――来る」
はっきりと、クラストは聞いた。空耳なんかじゃない。彼女の言葉を。
瞬間、稲光の衝撃が脳内をかき乱す。
激しく背中を打ちつけ、心臓がぐらついた。
廃屋の朽ちた屋根を突き破り、家屋をなぎ倒す暗い波動。
空気がかすみ、息がしづらくなって強く咳込んだ。
振り注ぐ雨の下、白い男が忽然と立っていた。
「――やっと見つけましたよ。凋落せし勇者」
額についた目を薄く開くと、中から濁ったような黄金を覗かせる。
侵判者パラダクス。
魔王の側近が一人。未来を見通す神通力を持つ、災厄の魔族。
この街を支配していたフェゴール卿など、足元にも及ばない。
そんな奴がなんでこんなところに。
「新しい魔法はいかがでしたか? 探知するのが大変だったでしょう……。あの一撃を受けて生きているなんて、さすがはしぶとい勇者ですねぇ」
絶え間なく浴びせられる大量の魔力に、頭が割れそうだった。
植物を枯らすような吐息を出し、見つめるものすべてに死を連想させる。
人間の恐怖を詰め込んだ存在。それがパラダクスという男だった。
「しかし、それも今日までです。この日をどれだけ待ち望んだことでしょう。宮廷魔法使い筆頭トアル=メアフェム。若くしてその才を摘むのは忍びないですが……ここまで逃げ果せたこと、誇りを持っていいでしょう」
言い終えると、第三の瞳が魔力を纏う。金属を捩じ切るような、不愉快な音が鳴り響いた。
トアルは勇者だった。
それがなんだよ。
「……いい加減にしろ」
クラストが前に立ち塞がる。パラダクスの瞳が彼を見つめた。
トアルが勇者じゃなくても、
「そうまでして俺たちをいたぶって……何が楽しいんだよ」
俺は彼女を絶対に助けてみせる。
空は黒に塗りつぶされ、雨が歪んで弧を描く。
「……ほう、面白いことを言いますね。その女せいで一体どれほどの命が失われたと思っているのですか。それを知りながら勇者は何もしようとは――」
「――殺したのは、お前らだろ! 勝手に勇者の罪にすり替えやがって……、俺たち人間は……そこまで馬鹿じゃねえ!」
膝が震えて立っているのがやっとだった。
それを見て嘲笑ったパラダクス。
「ただの人間にしては度胸がありますねぇ。いいでしょう。その勇気に免じて、選択肢を差し上げます」
発火する空気の隙間から、幾重にも連なる嗤い声が漏れ出てきた。
「これは『恒久の坩堝』。魂をそこに入れれば、永遠に生きられるそうですよ。……まあその代わり、中に住む怨念の囚人たちに久遠の苦しみ押し付けられてしまいますがね」
歪の向こう側で、赤黒い顔が手招きをする。
見続ければそれだけで精神を病んでしまうかもしれない。
「これを人間に試してみたかったのですが、どうやら自らの意志でなければ中には入れないみたいです。……なので、あなたがここに入っていただければ、その勇者の命までは容赦してあげましょう……」
邪気を孕む顔がほくそ笑む。
こんな取引、嘘に決まっている。
決まっている……しかし。
クラストは細い彼女の手を握りしめた。
トアルを守るには、これしか方法はない。
俯く彼女の頭に顔を近づける。
黒い髪が頬をくすぐった。
「トアル……必ず君を守るよ」
この小さな正義で彼女が救えるのなら、俺はなんだってやってやる。
「さあ、早く念じてください。一度入れば二度と出ることはできません。あなたが壊れていく様を、じっくりと観察してさしあげましょう」
トアルに背を向けて、坩堝へ手を伸ばした。
雄叫びを上げる亡者の数々が俺を見つめ、血の涙を流しながら歓喜に沸く。
……俺は――――勇者を救った英雄に――――。
持って生まれたのはこの身一つ。
運命は呪っても仕方ない。受け入れるしかない。
俺に許された唯一の救いは、彼女と出会えたことだった。
――――ありがとう
不意に風の中で、声が聞こえた。




