第9話 戻るのはあなただけ
ドアベルが鳴って、女が店に入ってくる。
「よー!」
元気に声をかけてきたその女に、俺は生返事で応えた。
「……どうしたの、元気ないね?」
「あんたが元気すぎるんじゃないのか」
「はは、それはそうかも」
あどけない笑顔だった。
「魔族に売上をもってかれたって、母さんが泣いてんだよ」
「ええっ! ひどい……」
苛立っていた俺は強い口調で言い放った。
「慰めなんていらねぇよ。そう思うんなら……せめてたくさん買ってくれ」
間を置かずに女は言った。
「いいよ、全部買ってあげる。いくら?」
「それじゃあ足りねぇよ、もっと買ってくれなきゃ……って、は? なに? 全部?」
「全部でも足りないの? うーん、じゃあ私は何を買えば……」
「ちょ、ちょっと待て! パン全部買うって……冗談だろ? そもそもあんた、そんな金あんのかよ!」
彼女は指からそれを抜き、帳場にそっと置く。
「これ母親の形見の指輪。純銀だから、売れば結構な価値があるんじゃないかな。足りなかったら、後で請求して。そうなると、当面はどう生活しようかな……」
「馬鹿! こんなの受け取れるかよ!」
俺の言葉なんか届いてないみたいに、彼女は無邪気に小首を傾げた。
「どうして? 私にこんな高価なもの必要ないし。それに人を助けられるなら、私のお母さんもきっと喜ぶよ」
彼女がそう言って笑うもんだから、俺はもう後には退けなくなってしまった。
底抜けに明るい彼女がいたから、俺はまだ正義を持ち続けられたんだ。
*
赤ん坊が泣き喚き、自我のない狂人が俺を呼ぶ。坩堝の底に見初められ、体と魂が乖離していった。
俺は神経の通わない不思議な感覚に身を委ね、ただ意識が浮遊するのを感じる。
パラダクスが目を細めた。
とめどない憎悪と心が触れて、
悲鳴が頭を割る。
その瞬間だった。
黒い雷が過ぎ去り、鈍重な響きを轟かせる。
俺の心に手を伸ばした坩堝を、粉々に叩き壊した。
鋭い閃光。輝かしい一筋の光が、ばらまかれた悪意を具に暴く。
第三の瞳が動くよりも早く、疾風の稲妻が魔族の腸をえぐり取った。
「――――ゴァッ!」
体を折り曲げ、廃屋の壁に激突するパラダクス。
雨に濡れた小さな体が横たえる。黒い雷は、トアルを元の姿に戻した。
「トアル……!」
俺は精一杯、名前を呼んだ。
雷を纏った代償に、体の表面が焼け焦げている。唇が青白い。
「……このッ! 勇者……のくせに……ッ!」
瓦礫の中から這い出てきたパラダクスが、指先をこちらに向けた。
魔力の波が集まり、結びつき、強固な力となる。
「苦しみに悶える姿が見られないのは残念ですが……もういいです! 貴様ら二人とも、あの世へ送って差し上げますよッ!」
狂気を吐き出すその男は、ぎろぎろと眼球を揺り動かす。
だが、力を出し尽くした彼女がひっそりと笑い始めた。
「あは……は……」
押しとどめられなかった声を漏らす。
「何を笑っているのですか勇者ァ!」
「あんた……その眼は、どうしたの」
額から流れた血に気づき、指で辿るパラダクス。
「そんな、私の瞳が……!」
「教えてあげる……あんたが私たちを探してたんじゃない……私たちがあんたを探していたのよ」
「――ッ! まさか!」
瞳を失ったパラダクスは魔力の制御を失い、暴走する魔法が体を焼き始めた。
「許さん……許さんぞォ勇者ァァァ!」
トアルはクラストの手を握った。
「……クラスト、よく聞いて」
彼女は告げた。
「あなたに、託すことになってしまう……ごめんなさい……」
「託すって、なんのことだよ!」
「この世界を……救ってほしいの。私は、あいつが現れるのをずっと、ずっと待っていた。人々の命が失われ……私たちが忌み嫌われようとも……この魔法を使うために、ずっと待っていたの」
「世界を救う……? 魔法……? おい、意味わかんねえよ! トアル!」
彼女の手のひらから伝わる、力強い鼓動。
黄金の奇跡。
「ハァ……ハァ……絶対に、殺してやりますよ……ッ!」
白い体を引きずりながら、パラダクスがもう一度魔力を操った。
必死に彼女に付き添い、クラストは目を閉じる。
大丈夫、そう彼女は言った。
「……灰の都、西方と鐘、若かりし血の英雄、茨を抱く黒狼、花散らす蝶――」
トアルの呪文が響く。
洞穴に吹く唸りのような風の音。
「その魔法は魔王様の……! 貴様どこでッ!」
狼狽えるパラダクスをよそに、彼女は続けた。
「三つ首揃いし従僕よ……灯りの失せた陽炎よ……。全能たる我が力の礎とともに、遍く星を引き寄せ給え――」
瞼の裏すらも照らす黄金の輝き。
トアルは魔法を解き放った。
「――――遡行せし因果!」
腕で顔を覆うと、彼女の影が浮かび上がる。
離れないように、離さないように、しっかりと掴んで。
そのはずなのに、体が、心が、遠くへ離れていく。
「トアルッ!」
「……私たちは機会を伺っていた。あの瞳に宿った未来に干渉する力を使うために」
「未来に干渉する力……?」
「本当は私が戻るつもりだった……だけど……変だよね。クラストのこと、守りたくなっちゃった……」
「どこに行くんだ……トアル!」
「この時代の私は死ぬ。だから、戻るのはあなただけ。……勇者が敗北した六年前に。未来を知っているあなたは……過去を変えて。そして勇者たちを――私たちを……勝利へ導いて……」
「トアル……ッ!」
ドアベルの軽い音が響き渡る。何十回、いや何百回も聞いてきた、取るに足らないものだった。
だけど彼女のおかげでその音は優しい響きに変わった。俺は毎日が楽しくなった。
こんな暗い世界でも、希望を持っていいんだって、自分を貫いていいんだって、そう思えたんだ。
かき消えていく自分の意識にしがみつこうと、俺は必死にもがいた。握りしめた手を離さないように。
彼女はそれを見て、小さく笑っていた。




