第1話 勇者の行方
――勇者は敗北した。
それは、俺がまだ小さかった時のこと。
人類最後の希望を託された勇者たちは、魔王との戦いに敗れた。
王国軍率いる精鋭の騎士は瞬く間に蹂躙され、栄華を極めし王家はやがて滅亡した。
抗う術を失った人類には、ただ魔族たちに隷従するしか道はなかった。
赤茶色のドアベルが鳴る。来客を知らせる子気味のいい音は、最近では俺の唯一の楽しみと言っても過言ではない。
「よう!」
「よー!」
俺の挨拶に気さくな返事をしたのは、ここらでは珍しい黒い瞳と髪を持つトアルという女性だ。
彼女はここの常連で、週に数回店を訪れる。
「あれ、ブレッダさんたちいないの? もしかしてお留守番? 偉いじゃん」
大人のくせにいたずらっぽく笑ったトアル。
「あのな、俺ももう十四だぞ。子ども扱いはそろそろやめてくれ」
そう言って俺は非難の目を向ける。彼女はからからと笑って「ごめんごめん」と調子よく謝った。
それがトアルという女性だった。
俺の父親は、元々貴族の屋敷で働いていたが、奉公先の没落を機会に街でパン屋を始めた。
腕がいいのもあって、食べるには困らないくらいの稼ぎがある。だからこうやって、トアルのように繰り返し足を運んでくれる客も大勢いるのだ。
「クラストってさー、もうパンは焼けるようになったの?」
トアルは他の店で買い物してきたのか、重そうな袋を持ち直しながら訊いてきた。
胸を反らせると、クラストはちょっとだけ見栄を張った。
「あ、当たり前だろ? 何年親父の背中を見てると思ってんだ」
「ふーん、じゃあどれがクラストの焼いたパンか教えてよ」
「え、えと、それは……」
クラストは急にしおらしく目を泳がせた。
実は店に並べられるようなものを作れたことはない。
そんな彼を、トアルは小馬鹿にする。
「嘘もつけないようじゃ、まだまだだね」
「なにーっ!」
ムキになってクラストは帳場から身を乗り出す。しかしなにも本心で怒っているわけじゃない。
口元をそっと隠すように笑うトアルの仕草を見つめる。俺はドアベルが鳴るたびに、そんな彼女の姿を想像するようになっていた。
こんな世界だからこそ、それを願ったってバチは当たらないはずだ。
彼女が何か言おうと口を開いた時だった。
外で甲高い悲鳴が聞こえた。
はっとした俺は、急ぎトアルと一緒に表へ出る。店先にドアベルの音が響いた。
パン屋は広い通りに面している。馬車が二台も通れるほどだ。
昔から人の往来も多く、遊んでるうちに人とぶつかっては、怒られることが多々あった。
「や、やめてください! 私は嘘なんかついてません! 本当です!」
叫んでいたのはこの近所に住む噂好きのおばさんだ。おしゃべりが大好きで、店にもよく来ていた。
あの人につかまると日が暮れるまで話を聞かされる、そう母さんがこぼしていたのを思い出す。
「密告が入ったそうだぞ」
「まさか、彼女が?」
「前から怪しいと思ってたんだ」
「勇者について、話してたみたい」
彼女を囲うように人だかりができていた。彼らは口々に雑言を吐く。
クラストは無意識のうちに手をぎゅっと握りしめた。
世界から勇者という希望が消えて、もう六年が経っていた。
王のいなくなった土地に、新たな支配者が現れる。それが魔族だった。
「うるせぇぞ! 人間風情が口答えするなァ!」
彼女に怒声を張りあげたのは、まごうことなき魔族の一人。手足の数は人間と同じだが、背中から生えたコウモリのような羽が、俺たちとは違う生物だと顕示する。
ぎらぎらした鋭い目つきの男。この一帯を取り仕切る魔族のフェゴール卿だ。
彼が合図すると、そばに立つ召使いの人間たちが彼女を拘束し取り押さえた。
「助けてぇ! 誰かぁ!」
引きずられながら荷馬車に運ばれ、助けを叫び懸命に視線を巡らせる。
だが彼女の声に応じる者は、誰もいなかった。
人間は自らの生存本能に従っているだけ。支配者が王家から魔族に変わったって、命の保証さえしてくれれば簡単に人間性さえ書き換えてしまえる。
クラストは無力な自分に憤りを感じていた。
「……クラスト、だめ。睨みつけちゃ」
耳元でトアルが囁いて、そこでようやく全身に力が入っていたことを自覚する。
鼻から大きく息を吐き出すと、肩から空気が抜けるようだった。
クラストは下を向いて告げる。
「ご、ごめん……」
トアルは首を振って彼の目を覗き込む。
「知り合い……だったの?」
「うん、まぁ……。俺はそこまで親しかったわけじゃないけど。この辺で遊んでた子どもなら、よくあの人に怒られてるはずだ。声は大きいし、話も長い。だけど面倒見が良くて、面白い話もよくしてくれた……」
悲痛な彼女の表情が、親友と重なった。
思い出の中から、また大切なものが失われていく。いつもそれを奪っていくのは、あいつら魔族たちだ。
羽を広げたフェゴール卿の周りに旋風が巻き起こる。彼は慄く人々を嘲笑うかのように、大声で叫んだ。
「おい人間ども、素晴らしい成果だ。勇者の居所を知っている者が続々と集まりつつある。あと少しで居場所が分かるはずだ。そうすれば俺様たちはこの街から手を引いてやろう! ……おい、そこのお前!」
突然指をさされたクラストは、驚きのあまり息をのむ。
「俺を睨みつける度胸があるなら、怪しい奴を連れて来い……。グフフ、案外近くに勇者が匿われていたりなぁ、ガァッハッハ!」
羽を翻すと、颯爽と魔族は飛び立っていった。
クラストは腰が抜けてその場にへたり込む。
「大丈夫?」
トアルが心配そうに手を差し伸べた。
魔族たちは魔王に敗れ消息を絶った勇者たちを探していた。
町の人間は、定期的に怪しい者を見繕っては密告を行わなければならなかった。
そのたびに一人、また一人と、何の関係もない人々が魔族に連れ去られていく。
魔族たちは勇者の情報を集めるために、人間たちを捜索の駒として利用していた。密告された人が帰ってきたことは今の一度もない。
つまり俺たちは、勇者たちが見つかるまでお互いに殺し合いをさせられているということだ。
「クラスト、立って。お店に戻ろう」
トアルに腕を引かれるまま、立ち上がったクラストだったが、忸怩たる思いが器官にむせ返るようだった。
「どうすりゃ……よかったんだよ」
俯いたまま呟く。
あのおばさんは本当に勇者のことを知っていたのか、なんてことはどうでもいい。
魔物に怯え、声をかけることすらできなかった自分がただただ恥ずかしかった。
「仕方ないよ。勇者が見つかるまで我慢するしかない。そうしないとクラストまで魔族に殺されちゃう。私、それは嫌だな」
優しく告げたトアルは、俺の肩を掴む手を少し震わせていた。
日が西に傾き、雲の中へ消えていく。
クラストはぽつりとこぼした。
「昔、親友に教わったんだ。『強い人になる必要はない。弱い人に寄り添える人になれ』って。そいつはいつだって、俺の味方だった」
彼女は首肯して目を伏せる。
「何度も聞いたよ、その友達のこと。本当に大切な人だったんだね」
「うん、またいつか、会えたら……」
前を向いたクラストを確認すると、トアルは手をそっと放した。
夕暮れが近い街の空を、うっすらと暗い雲が覆い始めていた。




