プロローグ
勇者は敗北した。
「見つけたぞ! 追え!」
細い路地に滑り込み、並べてある木樽を乱雑に放り投げた。
落ちたカラスを貪るネズミが、その大きな音に驚いて走り去る。
二人の荒い呼吸が交互に息を吐き出し、震える心臓を激しく動かす。鈍色の空から恐怖を煽る羽ばたきが聞こえ、背後には大勢の足音が迫っていた。
足がもつれて転びそうになりながら、握った手を引いて必死に走った。
角を曲がった先、廃屋の扉が開いている。すぐさま中に飛び込み、喉元を締め上げるように、自分の息を止めた。
窒息に耐え、音を殺す。目線を移すと、衰弱しきった瞳が瞬きさえしていないことに気づく。
流れる黒い血液が、衣服の端までこびりついていた。
――どうして、こんなことに。
血管が弾け飛ぶような沸騰した頭の中で、そんな声が聞こえた。
手を引いてきた”その人”は、だらりと首をうなだれる。外で飛び交う怒号も、もう耳には届いていないだろう。
「大丈夫……大丈夫だ……、絶対に俺が守ってみせる」
自分の囁いた声でさえ、ひどく嘘っぽく聞こえた。こんな状況を打破できる方法など、あるはずもないからだ。
祈るように冷たい体を抱きしめ、しばらく目を瞑った。この命を分け与えることができたのなら、どれだけよかっただろう。
やがて、民家を踏み均すような足音は消えた。まばらに降り始めた雨音に惑わされ、追手はどこかへ行ってしまったらしい。
ふと天井を見上げる。あばら屋根の隙間から水滴が垂れていた。その小さな雫の間に聞こえた、か細い声。
「――――来る」
頼りない屋根を突き破り、何者かが空から飛来してきた。
叩き折られる廃屋の支柱。腐食した壁が軋み、雨風がなだれ込む。衝撃が全身を薙ぎ払い、壁に打ち付けられた背中に痛みが走った。
呻きながらも顔を上げた先、そいつを見た。
人間とは思えない異形の姿をした生物。指先をこちらに向けて、慇懃に言葉を発する。
「――やっと見つけましたよ。凋落せし”勇者”」
黄金色に輝いた瞳が、二人をゆっくりと見下ろした。




