55、ミナの選択
ミナは目を白黒させながら何歩か後ろに下がってから、目の前を凝視していた。
大司教が消えたことに驚いていた彼女だったが、ふとどこからか……蛙が潰れたような唸り声が聞こえてくる。ミナがゆっくりと声のする方……地面へと顔を向けると、そこには両手両足を無様に広げた彼がいた。
大司教は身体を持ち上げようと必死だが、見えない何かに押しつぶされて身動きが取れないようだ。いきなりのことと……この魔法に覚えがあったミナは、二の句が継げなかった。
……この魔法は……いや、でも、あの方は領地で悠々自適に暮らしているはず……。いや、でもあの声は……。
ミナの頭の中は混乱していた。
考えがまとまらないミナだったが、後ろからコツコツと、この場にいる者たちからは絶対に聞こえない靴音が聞こえる。大司教はやっとのことで顔を靴音の方へ向け、その者の姿を見た瞬間……今までにないほど顔面が蒼白になった。
「ねぇ、バルカス? 貴方は大聖女の資格を剥奪できるほど……お偉いのかしら? 殿下。貴方も教会の話に口答えできるほど……お偉いのでしょうか?」
この場にいる誰よりも澄んだ、けれども冷徹な声。
この一言で王太子と大司教は声を発することもできないのか、歯の根も合わないほど震えている。そう、まるで絶対的な支配者に出会ったような――
ミナは声の方へと振り向き、敬愛の礼をとった。
「フローレンス様、お久しぶりでございます」
「エルミナ……元気そうで良かったわ。それに貴女……良い瞳になったわね」
まるで聖母のような美しい笑みに、ミナは息を呑む。以前から大聖女として凛とした慈愛に満ちた表情を浮かべていたが、今は少しお茶目心が見え隠れしている。
そしてそれ以上に目を惹いたのは……彼女の着用している服が、法衣であったこと。先代大聖女引退の際、法衣は教会へと返却していたはず。そのことに疑問を浮かべていると、フローレンスは少し舌を見せて微笑んだ。
「念の為、領地の屋敷に持ってきたの。エルミナたちだけでは防げない瘴気の災害が起きた時のためにね? でもまさか……ねぇ。こんなことに使うとは思わなかったわよ?」
彼女はチラリとバルカスと王太子を一瞥する。その視線は氷のように冷たい。そんな彼女の元に現れたのは、一人の執事であった。
「お嬢様、こちらを」
「ありがとう」
彼女が受け取った二枚の紙のうち、一枚はバルカスが用意した魔法契約書だった。そのことに気がついたミナは一瞬ベルドの方へと視線を向けると、彼は親指を立てて笑っている。どうやら彼が渡したようだ。
確認したいだけなのか、表情も変えずに一枚目の文章を読んでいたフローレンス。しかし、魔法契約書の内容に入った瞬間、彼女の眉間に深い皺が刻まれた。
それと同時に顔を上げていたバルカスが「ぐぇえ」と普通の人が出せないような声を漏らしながら、地面へと叩きつけられている。もちろん、王太子も同様だ。
一通り目を通した彼女は、すぐに執事へと手渡すと、腕を組みながら大司教の前へと立つ。足を肩幅に広げ、足元の汚泥を見るような……温度のない目で彼らを見下ろした。
「エルミナを追放した挙句、手が回らないから戻ってこい、ですって? ふざけるのもいい加減にしなさい」
彼女の口からとは思えないほど、地を這うようなドスの低い声があたりに響き渡る。バルカスと王太子はフローレンスの圧に耐えきれず、全身を小刻みに震わせている。まるで絶対的強者に怯えるような小物……それを示すかのように、王太子の座っている地面が、水で濡れ始めた。
今まで見たことのないほどのフローレンスの剣幕に、ミナは思わずじっと見つめていた。彼女の視線に気がついたフローレンスは、振り向くとミナには昔と変わらない笑顔を見せる。
「エルミナ。この件に関しては、私がどうにかするわ。それでね、ひとつだけ聞きたいの」
「フローレンス様、なんでしょうか?」
「エルミナはランディアに戻りたい? それとも彼らと一緒に帝国を回りたい?」
フローレンスはレアやベルド、ウルたちを指差した。
その言葉を聞いて、選択の余地を与えてくれているのだろうか、とミナは思う。けれども……本当にそうなのか。彼女は以前大聖女に私を指名している。だから本当は自分が戻るのが一番なのではないだろうか、と考えた。
再度フローレンスの目を見つめる。けれど、そこから感情は読み取れない。
さすが先代大聖女様だ、と敬愛の念を強めたミナ。だからこそ、彼女に嘘はつきたくなかった。
「私は……」
言いかけて後ろを振り返る。
眉尻が下がり、緊張しているのか息を呑んでいるレア。
微笑んでいるけれど、口角が少し下がっているベルド。
表情は変わらないが、こちらを凝視しているウル。
三人の顔を見たミナは、唇を一文字に引き締める。そしてフローレンスの目を見据えた。
「私は三人と行きます」




