54、狂った大司教
ミナの手の中にあった書類が落ちるのを、王太子と大司教は口をあんぐりと開けて見つめていた。
二人の中では当然ミナは「はい」と言うに決まっていると考えていた。そう決めつけていたから二人は、ミナの口から否定の言葉が出てきたことに、頭が追いついていない。
地面に音を立てて落ちた紙。二人は言葉を紡ぐことができない。
ミナは……捨てた書類は初めからなかったもの、と言わんばかりに興味を失っていた。
そんな茫然としている二人の視界に、誰かが入ってくる。ミナが拾ったのではないか、と期待した二人だったが……契約書面を拾ったのは、ベルドだった。彼はあごに手を触れながら、書類に一通り目を通す。
そして――
「あ、ミナさん。この魔法契約書、署名したとしても締結しないよ」
「えっ、そうなのか?」
ベルドの言葉に首を傾げるミナ。隣ではレアも同様に首を横に倒している。
彼の言葉にあごが落ちるくらい口を開けているのが大司教だ。自分の作成した魔法契約書が使えない、と突きつけられたのだから。
「ベルドさん、なんでその書類使えないの?」
今、この場にいる誰もが胸に抱いている疑問を訊ねたのはレアだった。彼は書類を皆に見せるように掲げると、ある一箇所を指差す。
「ここに『民籍をランディア王国として登録し』とあるだろう? ミナさんは既に帝国の民籍に入っているから、これだと二重民籍になってしまうんだよね。魔法契約だと、それは認められていないから、そもそも契約が成立しないんだよ」
ベルドの話を聞いて、大司教の身体から力が抜けていく。
そして彼は地面に膝をついて……うなだれた。そもそもの話、自分のしてきたことは無駄だったのだ。ミナは元々聖女として教会へ入る際に、ランディア王国の民籍登録をしていたのだが……国外追放を考えた際に、真っ先に破棄したのがソレだったことを思い出す。
契約が成立しない、そう聞いた王太子は、大司教を睨みつけた。自信満々で自分に話を持ちかけてきた男が、実は最初から穴だらけの計画で……自分はそれに乗ってしまったのだ。
「なんてことをしてくれたんだ! 全てお前の失態だろう?! これは私にとっての最大の汚点だ! どうしてくれる!」
唾を飛ばしながら叱責する王太子。彼は気づかない。後ろにいる護衛の一人が、何かを紙に書きつけていることに。この姿を婚約者である侯爵令嬢が見たら、百年の夢も醒めるだろう、と思うほどに醜悪な行動。
周囲がしらけていることすら察することができない、浅はかさ。
王太子から責められた大司教は、顔を上げることができない。しかし、幾ばくかの時間詰められた彼は、なんの脈絡もなく勢いよく正面を向く。その瞳にはどんな手段でも計画を成功させてみせる、と言わんばかり狂気を孕んでいた。
「エルミナぁぁぁぁ!! お前は俺と教会へ帰るんだ!」
そう叫びながら立ち上がった大司教はミナの胸ぐらを掴もうと足を踏み出した。彼の迫力に気押された彼女が、一歩後ろに下がる。けれど……それ以上の速さで大司教は近づいてくる。
後一歩でミナを捕まえることができる……!
そう思ったのか、大司教は今までに見たこともないほど欲望に取り憑かれていた。彼は、第三者が見ても誰か理解できないだろうと思えるほど卑猥な笑みを湛えている。目の焦点は合っておらず、口からは薄汚い涎がいくつも糸を引いており……動き、喋るたびに周囲へと飛び散っていく。
あと拳ひとつ分でミナに手が届く。
そう考えた大司教がさらに口角を上げて邪悪な笑みを見せた瞬間――
「バルカス! 止まりなさい!」
声が聞こえたその時、ミナの目の前にいたはずの大司教の姿が一瞬で消えていた。




