第52話 神官、疑惑に揺れる
(あのときの子……? どういう意味なの……)
打ち寄せる波の音が響いている。
エイヴリー様は、静かな眼差しでイグナシオを見つめた。
「……リオン、僕のことをお義父さんと呼ぶことを許してあげるよ」
「えっ?」
表情を消したイグナシオが、エイヴリー様を見返した。
マキシマスさんもエイヴリー様を見ている。
「まさか……ふざけないでくださいよ」
掠れた声でそう言ったイグナシオに、エイヴリー様は「僕はいつだって本気だよ?」と笑いかけた。
(そんな……エイヴリー様が、わたしの……)
そんなはずがない。
わたしはハーフエルフだ。それも、赤子の頃に川に捨てられた――
「まさか、アグネス殿の父親は……」
マキシマスさんの低い声が落ちた。
静かに微笑むエイヴリー様に、わたしは小さく喉を鳴らした。
傍らに座ったままのイグナシオは、険しい顔で黙ったままだ。
「その石はね、ずっと昔に僕の子どもたちにあげたものなんだ。……『精霊石』と呼んで、一族で分けてきたみたいだね」
微笑むエイヴリー様に、仏頂面のイグナシオ。マキシマスさんは落ち着かない様子だ。
わたしは、首から下げたペンダントを包むように握り締めた。
「何年前になるかなぁ……今くらいの季節に、まだ小さな赤子を抱いた一人の娘が僕に祈りを捧げたんだ」
エイヴリー様はそう言うと、優しい眼差しでわたしを見つめた。
「『どうかこの子が、無事に生きられますように』とね――それで、僕はその子に祝福を与えた。“無事に生きられる”ようにね」
「それでは……アグネス殿は――」
マキシマスさんの問い掛けに、エイヴリー様は少しだけ首を傾げた。
「エイヴリー……あなたが父親だなんて、何かの間違いですよね」
波音がまた一つ響いた。
皆がエイヴリー様を見ている。
「うん? その子は僕の娘も同然さ。ハイエルフの子だからね」
「ハイ、エルフ……?」
「そうだよ」
息を呑むマキシマスさんに、小さく安堵の息を漏らすイグナシオ。
ハイエルフは、神話でしか聞いたことのない聖なる種族だ。子どもの頃に、ハイエルフは女神に愛された特別なエルフだったのだと教えてもらったことがある。
「いや……わたしは、ハーフエルフですよね?」
「間違いなくハイエルフだよ。前に“先祖返り”だと言ったろう? 随分前から見かけなくなったけれど、君は僕の血が強く出たみたいだね」
エイヴリー様は、「君は精霊たちに愛されているはずだよ」と自らの耳をトントンと指して微笑んだ。
「僕のことは、“お父さん”と呼んで良いんだよ。ああ、パパでも良いね」
「……畏れ多いです」
わたしが首をブンブンと横に振ると、エイヴリー様は少し残念そうに笑った。
「あの……『アンセルマ』って、母の名前ですか?」
「いや……確か――イラーナだったかな。『アンセルマ』は君の名前だよ。“神に守護されし者”の意味を持つ名だ。彼女は、なんとしても君に生きてほしかったんだね」
柔らかく目を細めたエイヴリー様に、わたしは俯いた。
「僕がイラーナの元に連れて行ってあげようか? 精霊の森の奥に住んでいるはずだよ」
わたしの母親は、存在するのか――
けれど、わたしは何も返せなかった。
(お母さん……)
『アンセルマ』――その名を、母は呼んでくれたのか。母は、わたしの無事を願ってくれていたのか。
今も、もしかしたら、わたしのことを――
目の奥から滲んだ涙は、瞬きをすると砂浜へと落ちた。
記憶の欠片にすら存在しなかった母の想いを感じ、胸が強く締め付けられる。
(イグナシオ……?)
ふいに、温かな腕に抱き寄せられた。
彼はただ、黙って私の肩を包んだ。
「アンセルマ、どうするんだい?」
エイヴリー様の声に、肩を包むイグナシオの手が少しだけ強くなった気がした。
「エイヴリー様、ありがとうございます。……でも、良いんです。母のことがわかっただけで……」
わたしは、エイヴリー様を真っ直ぐに見上げる。
「わたしは、アグネスなので」
そう答えると、わたしはイグナシオの手を握った。
何故、母はわたしを手放したのか――その問いを口に出来ないまま陽は沈んだ。
わたしはきっと、恐ろしかったのだ。今の幸せが壊れてしまうのではないかと――
それに何故か、母に会えばイグナシオが遠くに行ってしまうかもしれない――そんな気がしたのだ。
◇
アグネスたちがルアの浜辺へと戻り、無事にバーベキューが始まった。
けれど、三人はどこか上の空で飲み物を口にしていた。
ファビオやダリオたちに勧められるままに肉を頬張るアグネス。その姿を、イグナシオは心配そうに見ていた。
バーベキューの後片付けも終え、皆がそれぞれのコテージに戻り夜更けになった。
マキシマスは、同室のエイヴリーの寝顔を見てひと息吐くと、一人机へと向かった。
『七月十日。
久しぶりに日記を付ける。
ここしばらくの間、あまりに衝撃的な話が多く、ひどく混乱している。
今日わかったことだが、アグネス殿はハイエルフで、本来の名は『アンセルマ』だというのだ。
ハイエルフは伝説上の存在だと思っていた。
まさか、本当に目にすることになるとは――
そして、十年前にリーテの教会の火事で消息不明となった少女アンセルマ――あれがアグネス殿なのだろうか。
ならば、十年前に炎の中で犠牲になった幼い少女はいなかったことになる。
神よ! ――いや、彼女を助けたという竜殺し殿に、感謝と敬意の念を抱く。
しかし、竜殺し殿が黒い天使像に入っていたとは驚きだ。
未だに信じられない思いだが、確かに彼が天使像に入ったのを目にしたのだ。アグネス殿も見ていたから間違いない。
彼は、一体何者なのだろうか。
私の背後では、エイヴリー様が眠っておられる。
これは、本当に現実なのだろうか。
そして――信仰とは、一体何なのだろうか。
私は、
暫く、ゆっくり考えてみようと思う。
マキシマス・ペスカリ』
マキシマスはペンを置くと、燭台の炎をそっと消した。
窓辺から見えるのは、月に照らされた夜の海。
その景色を、彼は静かに眺めていた。




