第48話 神官、誕生日を祝う
――『イグナシオは、おたんじょうびがないの? じゃあ、わたしといっしょにしようよ』
六月の終わり、苺月の日。
アグネスとイグナシオの誕生日は一緒だ。
今年は女将さんに厨房を借りて、手作りケーキを作ることになった。工程の大半はイグナシオが担当し、アグネスはフルーツを飾る予定だ。
「イグナシオ、どうしたの?」
何かを思い出したかのように小さく笑ったイグナシオ。彼はアグネスを見ると、幸せそうに目を細めた。
「いえ……誕生日を祝うというのは、良いものですね」
「そうだね」
「ケーキの材料もバッチリだし、楽しみだね!」とアグネスは笑った。彼女が抱えた紙袋には、もぎたての桃が五つ入っている。イグナシオの抱える紙袋はケーキの材料で一杯だ。
(ん……?)
アグネスはどこからか視線を感じて振り返るも、そこには青い木立がさざめくだけだった。
木々の間で、薄茶色の羽の小鳥たちが遊んでいる。
「アグネス様?」
「何でもないの」
「そうですか……」
薄く笑んだイグナシオ。
二人は、ゆっくりと歩き出した。
木立の向こうから、幹に紛れるような茶色のローブ姿の若い女が顔を覗かせた。
癖のない亜麻色の髪に、長く尖った耳。大きな青い瞳のひどく美しい女だった。
女は、笑っているアグネスの横顔を見つめると、その胸元に揺れる不思議な輝きの石をぎゅっと握り締めた。
「――っ!」
ふいに振り返ったイグナシオに、女はびくりと肩を揺らした。
フードを目深に被り直すと、頭を深く下げる。
次の瞬間、女は木立に紛れるように姿を消した。
「イグナシオ? どうかした?」
「いえ、何でもありませんよ……さあ、帰りましょう」
イグナシオは右手で紙袋を抱え直すと、空いた左手を差し出した。
その手を見て微笑むアグネス。
二人は微笑み合うと、手を繋いで歩き出した。
◇
金の小鳩亭の厨房には、甘い香りが漂っていた。
「おや、上手に焼けてるじゃないか! 大したもんだねぇ」
「イグナシオ、天才〜!!」
目を輝かせたアグネスは、焼き上がったスポンジの甘い匂いを胸いっぱいに吸い込んだ。
「アグネス様のために丹精込めて焼きました」
そう言って嬉しそうに笑ったイグナシオに、宿屋の女将は柔らかく目を細める。
ここしばらくの間、毎夜遅くにスポンジを焼いていた彼を見ていたのだ。
「それじゃあ、仕上げをしないとね」
女将が取り出したのは、新鮮な生クリーム。
泡立てた生クリームを、イグナシオが慎重に塗り広げていく。生クリームの上には、カットした桃を並べ、また生クリームを塗り広げる。
その真剣な横顔を、アグネスは固唾を飲んで見守っている。
「さぁ、アグネス様。お願いします」
イグナシオに見守られながら、カットした桃をアグネスがそっと乗せていく。
「あっ! 少しズレちゃった……」
「ごめんなさい」としょんぼりした表情のアグネスに、イグナシオは優しい笑みを向ける。
「とても美味しそうですよ。大丈夫です」
気を取り直したアグネスは、なんとかすべての桃を飾り終えた。
食堂のテーブルに運ぶと、二人でそっと蝋燭を立てていく。ケーキの蝋燭は、何故かいつも十二本だ。
午後の食堂は、少しだけ薄暗かった。
イグナシオが指先を翳して、そっと蝋燭に炎を灯していく。
「アグネス様が生まれた日に心からの感謝を」
「お誕生日おめでとう、イグナシオ」
「アグネスちゃん、神官さん、お誕生日おめでとう」
「せーの」
アグネスの掛け声で、二人は一緒に蝋燭の炎を吹き消した。
「それでは、私が切りますね」
イグナシオがカットしたケーキが、皿に乗せられていく。
「ありがとうねぇ! アタシからも少しだけど、これを食べとくれ」
「うわぁ! 美味しそう……いただきます!」
女将が二人のためにこっそり作ってくれていた肉料理も並び、二人は誕生日を楽しんだのだった。
そうして、夜は更けた――
「おやすみなさい、イグナシオ」
「おやすみなさい。アグネス様、良い夢を」
窓辺からは、優しい月明かりがアグネスの寝顔を照らしている。
彼女は、不思議な夢を見ていた。
その胸元では、小さな精霊石が煌めいている――
『セルマ……許して……』
涙を溜めた青い瞳が、じっと見つめている。
震える唇で呟かれた声は、よく聞こえなかった。
温かな腕が、柔らかな感触へと変わる。
先程までは間近にあったはずの女の顔――けれど今は、遠くにあった。
幾つも流れ落ちる涙が、草地の白い小花を濡らした。
「どうか、無事に……」
次第に、その姿は遠ざかっていく。
ゆらゆらと、微かに光る揺りかごは揺れる。
聞こえるのは、柔らかな小川のせせらぎと風が木々を揺らす音だけ。
蛍の淡い光が舞い踊り、夜空では真ん丸の月が見下ろしていた――




