第40話 神官、日課に励む
教会本部に所属する神官、マキシマス。
調査官としてリベラの街に派遣された彼の一日は、日の出前から始まる。
滞在しているリベラの教会の一室。
まだ薄暗い中でマキシマスは身支度を整えると、卓上に置いた小さな女神像に祈りを捧げる。
季節ごとの祈りを唱えた後、胸の内で一心に祈るのだ。
(何よりも清らかで美しい女神エイヴェリー様。この生涯を貴女に捧げます。いつか顕現なされるときは、このマキシマスを――)
季節ごとの祈りよりも、その後の個人的な祈りの方がいつも長い。
「それでは、鍛錬に行ってまいります」
彼は女神像に向かって深く腰を折ると、黒い袋を背負って部屋を出る。
「――願わくば女神の祈りが我らを導き、その花冠の祝福が渇く大地を潤す祈りにならんことを……」
聖堂の女神像にも祈りを捧げると、彼は静かに教会を出る。
外で軽く柔軟体操をすると、日課の走り込みが始まる。
まだ薄暗い街中を、黒い神官が軽やかな足取りで駆けていく。
向かうのは、リベラの近くにある川だ。
少し遠回りしながら十五分程走ると、彼は川に辿り着いた。
木の陰で神官服を脱ぐと、黒い薄手の上下になり腕立て伏せを始める。
両腕で百回、片腕で三十回ずつ腕立て伏せをすると、今度は体術の型を一通り全力で行う。
「はぁああっ!! てやあ!!」
静かな川辺に響き渡る低い声。
彼は実際の戦闘ではあまり声は出さないが、鍛錬の際はそうでもない。
勢いづいた彼は、足首につけていた伸縮性の棍を握ると豪快に振り回し始める。
「ハァッ! セイッ! エイヤッ!」
「おはよう! 兄さん、今日も精が出るなあ」
「ふぅ……おはようございます」
笑顔を向けるのは、犬の散歩で毎朝やってくる老人だった。マキシマスは老人に薄く笑いかけると、棍を仕舞い汗を拭った。
老人が連れている犬が嬉しそうに尻尾を振っている。
「武闘家も大変だねえ」
「いえ、私は神官でして」
老人といつものやり取りをする。
彼は老人と雑談をし、屈んで犬の頭を撫でた。
「……そろそろ日が昇るな」
マキシマスは汗を拭きながら、老人と犬と並んで遠くの山並みを眺めた。
薄暗かった空が、水色とオレンジ色のグラデーションに染まっていく。
「女神エイヴェリー様の祝福だ……」
彼は朝日を浴びながら深呼吸した。
「それじゃあ。兄さん、また明日な」
「はい、また明日。女神エイヴェリー様の祝福を」
老人に挨拶した彼は、川へと入っていく。
流れる水面の下に、数匹の魚の影が見えた。
「どうか本日の糧をお与えください」
彼は低く呟くと、川へと両腕を突っ込む。
「ひい、ふう、みい……これで足りるな」
彼は捕った数匹の魚を背中の黒い袋へと入れ、川を上がった。
◇
教会の厨房に、マキシマスは一人立っていた。
木のまな板の上に、銀色の川魚を置くと包丁を手にする。
「おはようございます、マキシマスさん」
「ジューン殿、おはようございます。良い朝ですね」
「今日も魚を獲ってきてくださったのですか?」
厨房にやって来た年配の女性神官に「はい」と微かに微笑むと、彼は慣れた手つきで魚を捌き始める。
「今日の朝食は、ムニエルとスープにします」
「まあ、子どもたちも喜びますわ。いつもありがとうございます」
「教会本部からいらした方に、ここまでしていただくなんて恐縮ですわ」と頭を下げる女性神官に、マキシマスは静かに首を振る。
「私に出来るのは、これくらいですから」
彼は手際良く下拵えをすると、サラダと白身魚のムニエルと魚と香草のスープを作った。
◇
日が昇った。
朝食の後片付けまで済ませたマキシマスは、リベラの街を歩いていた。
「イグナシオ〜! あそこだよ、新しい屋台」
「アグネス様、走ると危ないですよ。ゆっくり行きましょう」
(見つけたぞ……)
彼はレモネードの屋台に隠れると、二人の様子を覗き見る。不審な眼差しを向ける店主には気付いていないようだ。
「ホーンラビットの串焼きがめちゃくちゃ美味しいらしいよ」
「アグネス様、いつもの串焼きじゃなくて良いんですか?」
「うん。鳥王はまた今度にする」
「それでは、ホーンラビットの串焼きを買いに行きましょう。スイーツはどこにしましょうか?」
マキシマスは小さな黒いノートを取り出し、ペンを走らせる。
「調査対象は今日も少女Aと食べ歩きをしている。最近は専ら串焼きを……」
彼のノートは、ただの観察日記になっているようだ。
「あっ、マキシマスさんだ。こんにちは」
「おお! こんにちは、奇遇ですね。実に良い天気だ」
「マキシマスさんも食べ歩きですか?」
「いえ、違います」
「えっ?」
正直過ぎる彼を、アグネスは困惑の眼差しで見つめた。
その視線に、マキシマスは慌てて辺りに視線を巡らせる。
「あっ、ええと……喉が渇いてレモネードを買いに……――レモネードをひとつください」
店主に代金を渡したマキシマスは受け取ったレモネードをゴクゴクと飲み始める。
「このレモネードは、実に爽やかな味ですね」
「ははは」とぎこちない笑みを浮かべるマキシマス。
そのとき、イグナシオがマキシマスをじっと見て目を細めた。
「マキシマスさんって、何を調査してるんですか?」
「えっ?」
「教会本部の調査官なんですよね?」とイグナシオがマキシマスを見つめている。【鑑定】だ。
「な、何故それを……」
「書いてありますからね」
イグナシオは指をさした。
彼の視線の先――マキシマスの顔に被さるように『マキシマス・ペスカリ、二十四歳、教会本部所属の調査官、女神エイヴェリーに生涯を捧げている……』と文字が浮かんでいる。
ひどく狼狽えた様子のマキシマスは、神官服の袖でゴシゴシと顔を拭った。
「し、失礼します……!」
黒い神官服を翻した彼は、逃げるように走り去った。
「調査官さんも大変だよね」
「串焼き、食べに行こうよ」と言ったアグネスに、イグナシオは頷いた。
そして、教会では――
「何故だ?! 一体どこに書いてあるんだ?!」
マキシマスは、帰るなり脱いだ黒い神官服をバサバサと広げ隅々まで確認する。
そして、肌着一枚になった彼は、姿見の前でぐるぐると回って全身を確認した。
どこにも“調査官”などと書かれてはいないはずだ――
そのとき、鏡越しに微笑む白い女神像と目が合ってしまう。
「お、おお!! 女神エイヴェリー様!! なんというお目汚しを……!!」
「どうか、どうかお許しください!!」と叫んで勢い良く土下座したマキシマスは、床に激しく額をぶつけた。
――コンコンコン!
「ヒィッ?!」
響いたノックの音に飛び退るマキシマス。
「マキシマスさん! どうかなさいましたか?!」
「ジューン殿!?」
(まずい! これでは変態だ……!!)
「な、何でもないのです!!」
半裸で額を押さえた彼は、慌てふためいたのだった。




