第34話 神官、天使のように微笑む
ゆらり、ゆらりと揺りかごが揺れる。
ひどく暖かな揺りかごが――
わたしは不思議な夢を見ていた。揺りかごに揺られる夢だ。
どこからか、川のせせらぎの音も聞こえる。
けれど、夢の感覚はゆっくりと遠くなっていった――
(変な夢……)
瞼を開けると、わたしは歩くイグナシオの腕に抱かれていた。
見上げた曇り空は、薄暗くなりかけている。
「アグネス様、お目覚めですか」
「イグナシオ……」
まだぼうっとする頭で見上げると、彼は柔らかく微笑んだ。
「もうすぐ、伯爵邸に着きますよ」
彼の言葉に、わたしは慌てて彼の首にしがみつきあたりを見回した。
伯爵令嬢の姿がどこにもない。
「娘さんは?!」
「えっ? ……ああ、収納に入っていますよ」
「よく眠っています」と微笑んだイグナシオに、わたしは力が抜けた。
魔族は、ピートさんとベッキーさんの二人を連れて去ったそうだ。
ともかく、巻き込まれたお嬢さまが無事で良かった。
「イグナシオ殿、アグネス殿、お帰りなさいませ」
伯爵邸に着くと、執事長が出迎えてくれた。
「神官と呼んでください」と微笑んだイグナシオは、玄関先で収納から伯爵令嬢を引き摺り出す。
「傷一つありませんよ。眠っているだけです」
大理石の床で横たわる令嬢の姿に、慌てて駆け寄る執事長や使用人たち。
邸に着く前に出させて運ばせるべきだったと後悔する。
「あの――捕らえた魔物はどちらに……?」
「そのことについては、これから伯爵にご報告します」
執事長に案内された部屋に入ると、期待の眼差しに満ちた伯爵が立ち上がった。
「それで、魔物はどこだ?!」
「……残念ですが、捕らえることは叶いませんでした」
イグナシオがそう静かに告げると、ダリ伯爵の怒号が響いた。
「貴様、S級だからと任せてやったのに……早くあの魔族を連れ戻して来い!!」
狂ったように喚き散らす伯爵を、イグナシオは静かな眼差しで見つめ返している。
「……その髪、ご自慢のようですね」
薄く微笑んだイグナシオは、紫色の小瓶を揺らしてみせた。
「そ、それは……?」
小瓶を見て喉を鳴らした伯爵に、イグナシオは笑みを浮かべる。
「悪行を働こうとすると、神罰が下るかもしれませんねぇ……例えば、この小瓶の中身が頭上から振り注ぐとか」
「せっかく手に入れた髪ですから、大切にしたいですよね」と天使のように微笑んだイグナシオ。
顔面蒼白になった伯爵は、力なくソファに座り込んだ。
「依頼は一部達成できませんでしたので、報酬は結構です。ですが――ご令嬢が無傷で戻ってきたことを、神に深く感謝することです」
伯爵は、呆然とした顔でわたしたちを見つめている。
「娘さん、ご無事で本当に良かったですね。……約束、これからは守った方が良いですよ」
わたしが背を向けると、「娘を助けてくれて、感謝する」とひどく小さな声が聞こえた。
わたしたちは、振り返らなかった。
◇
わたしたちは、金の小鳩亭に着いた。
いつものように温泉に浸かり、食堂で食事を終えると部屋へと戻る。
王都で女将さんたちへのお土産を買おうと思っていたのに、すっかり忘れてしまっていた。
またいつか、あの地に行くことはあるのだろうか――
「ねぇ、あの小瓶ってなんだったの?」
「まさか、『ハゲる薬』? いつの間にもらったの?」と聞いたわたしに、イグナシオは小さく笑った。
「あれは、ただの気付け薬ですよ」
「なんだ……」
「フフフ」と笑ったイグナシオに拍子抜けだ。
青褪めていた伯爵はきっと、『ハゲる薬』だと思っていたに違いない。
「ふぅ……今日はちょっと疲れたね。ゆっくり休もう」
この小鳩亭の部屋は、もう我が家のような場所だ。
でも、温泉で温まり、満腹になってホッとしているはずなのに、胸の奥のモヤモヤは消えなかった。
「アグネス様、大丈夫ですか?」
「う〜ん……しばらくモヤモヤするかも」
そう返して笑うと、イグナシオは少し悲しげな顔で微笑んだ。
彼はわたし用のブラシを取り出すと、いつものように髪を梳かし始める。
(親って、何なんだろう……)
娘の無事よりも、『ハゲる薬』を求めていた伯爵。
まるで便利な道具のように扱われていた魔族の青年。
そして――
(イグナシオって、もしかして魔族なのかな……)
彼の尖った耳を見つめる。
魔族の青年よりも尖っているが、人によってちょっと違うのかもしれないし……。
ハーフエルフなのか、魔族なのか――
「ねぇ……イグナシオって、どこから来たの?」
そう問い掛けて振り返ると、彼はわたしを静かに見つめた。
「それは……いつの話でしょう?」
「いつ? いつって……わたしと出会う前だよ」
そう返すと、彼は少しだけ首を傾けてふわりと微笑んだ。
「アグネス様の傍にいましたよ」
「……そうなの?」
「はい」
「うーん……覚えてないんだよね。小さかったからかな」
出会ったとき、わたしは五歳前後だったはずだ。
あの教会に、白い服を着た神官はいただろうか。わたしの記憶に残っていないだけなのか――
「その前は、どこにいたの?」
「その前とは」
「わたしと出会う前だよ」
彼は、目を閉じて微かに微笑んだ。
「私は……闇の中にいました」
「闇の、なか……?」
「はい」
頷いて微笑んだ彼に、胸がひどくざわめいた。“闇”とは、一体どういう意味なのだろうか――
そういえば、昔から『闇の中から救われた』とイグナシオは度々言っていた。
「アグネス様?」
「ねぇ、イグナシオ。……今は、幸せ?」
彼は目を僅かに見開いて――そして、とても綺麗に微笑んだ。
「はい、とても幸せですよ。アグネス様に救っていただいたときから、ずっと――」
「そっか……イグナシオが幸せなら、それで良いよ」
彼が魔族でも、ハーフエルフでも構わない。
ハーフエルフのこともよく知らないし、魔族の寿命もわからないけれど、きっと人族よりは長いだろう。人に言えない過去の一つや二つ――いや、もっと色々あるのかもしれない。
そういう話は、本人が語らない限り、聞くべきではないのだ。
「イグナシオ、いつも一緒にいてくれて……守ってくれて、ありがとう」
「アグネス様……」
瞳を潤ませたイグナシオから、わたしはふいと視線を逸らす。
いつも感謝はしているけれど、こうして改めて伝えるのはやはり気恥ずかしい。
「そろそろ休もうか。……イグナシオ、おやすみなさい」
「おやすみなさい、アグネス様。良い夢を」
見慣れたものだが、彼の微笑む顔は本物の天使のようだ。
わたしは柔らかな眼差しの彼に笑いかけると、毛布に潜り込んで瞼を閉じた。
眠れないかと不安だったが、わたしはすぐに深い眠りに落ちた。
――その夜更け、イグナシオはちくちくと縫い物に勤しんだ。
青色の生地を器用に縫い合わせ手のひらサイズの見習い神官の服を作ると、丸くカットされたライトベージュの生地にチクチクと刺繍を施す。
丁寧に一針一針縫い合わせ、真っ白な綿をそっと詰めていく。
そうして作られた少女の愛らしいぬいぐるみは、スヤスヤと寝息を立てる彼女によく似ていた。
(出来ました! 渾身の出来です!)
アグネスの寝台の脇に飾られた二体の少女のぬいぐるみに目をやると、イグナシオは手にしたぬいぐるみを満足気に見つめる。
「私のアグネス様が一番です」
彼はぬいぐるみの亜麻色の頭をそっと撫でると、大切そうに棚の上に座らせた。その傍らには、色とりどりの春の花で編まれた冠がひとつ飾られている。
もう花の季節は終わったというのに、花びらは摘んだばかりのように瑞々しかった。
彼はそれを、それは愛おしげに眺めたのだった。




