第14話 神官、給仕に回る
昼下がりの金の小鳩亭の食堂。
白のカッターシャツの袖を捲り、黒いパンツにエプロンを付けたイグナシオは、厨房の奥で真剣にパンを捏ねている。
「アグネスちゃん、どうしたんだい?」
「あ、女将さん……少し、考え事をしていて」
イグナシオからもらったお城――迎賓館の使用料が入るようになってから、何故かわたしの不安は少しだけ増していた。
また、お金がなくなるんじゃないか、という不安だ。ヴァルムのギルドが燃えたとき、一瞬で全て消えてしまったから。
(細々とでも、安定した収入があった方が良いのかなぁ……)
教会に所属すれば給与が支給されるが、イグナシオももれなく付いて来るだろう。彼はなかなかの変わり者だ。二人揃って厄介払いされる未来しか見えない。
「何か良い仕事ないですかね」
「アグネスちゃん、Bランクの冒険者なんだろう? 神官さんは、Sランクだって……」
「冒険者って、いつ何があるかわからないでしょう? 毎日仕事があれば良いなぁって思って……」
わたしがそう返すと、女将さんは少し考え込むように黙り込んだ。
「それじゃあ、うちの食堂を手伝うのはどうだい? 夕食の時間だけ。……勿論、宿にいるときだけで良いからさ」
「えっ? 良いんですか?」
「夜は混みやすくて、少しばかり手が回らないことがあってね……手伝ってもらえると助かるよ」
「あの人が、宿を手伝ってくれると助かるんだけどね」と小さく笑った女将さん。
首を傾げたわたしに、女将さんは「アタシの亭主も冒険者なのさ。冒険者は危険が付き物だし、もういい年なのにね……」と視線を落とした。
「『幻の秘宝を探してくる』なんて言って、もう一年近く帰ってきてないんだよ……今頃、どこでどうしてるんだか」
(女将さん……)
「湿っぽい空気にしちまったねぇ……さ、夜の仕込みをしないとね」と笑顔で袖を捲った女将さんに、わたしは「良かったら、お手伝いさせてください」と近づく。
「それじゃあ、台拭きを手伝ってもらえるかい?」
「はい!」
こうして、わたしは金の小鳩亭で手伝いを始めることになった。
しかし――
「ご注文は?」
イグナシオの声が響く。
わたしは、厨房の中からホールに立つ彼の姿を見つめた。
「ホーンラビットのシチューを頼む」
「俺も、同じものを」
「ホーンラビットのシチューをお二つですね」
伝票を持ったイグナシオが戻ってくる。
「ホーンラビットのシチューを二つお願いします」
「あいよ! ホーンラビット二丁!」
初めは、わたしがウェイトレスだった。
けれど、わたしが呼ばれる度に「ご注文をお伺いします」と颯爽とやって来るイグナシオを見かねた女将さんの計らいで、彼がホールに立つことになったのだ。
おかげで、わたしは厨房で下拵えの手伝いをしている。お芋の皮剥きだ。
(お料理の勉強もさせてもらえるし、良かったのかな……)
そのとき、若い女性の声が響いてわたしは顔を上げた。
新しいお客さんは、獣人族の女戦士だった。なんというか、グラマーでスタイル抜群だ。
「お久しぶりね、神官さん。……あなた、S級なんですってね」
微笑んだ美女に、イグナシオが顔を向ける。
こんなふうに、彼の知り合いの女性を見るのは初めてだった。
(なんか、モヤモヤするなぁ……)
二人が並んでいる姿から目を背けるように、わたしは視線を落とした。
それなのに――聞くつもりなんてないのに、何故か二人に意識が向いてしまう。
「まさか、S級が食堂を手伝ってるなんてね」
「アグネス様のためです。いつも傍にいたいので」
響いたイグナシオの声に、わたしは俯いたままで小さく唇を結んだ。
嬉しいような、でも違うような――複雑な気持ちだ。
「……アグネスさんは、ここにいるの?」
「はい、厨房にいますよ。バディさん、ご注文は?」
「ベリンダよ! まさか私の名前を覚えてないなんてね」
声を立てて大笑いした美女はベリンダさんというらしい。
「あなた、本当に最高ね!」と滲んだ涙を拭う彼女の隣で、イグナシオは佇んでいる。
(何かイヤだなぁ……何でだろう)
わたしは、再び視線を落とすと、剥き終わったお芋の皮を黙々と片付ける。
何だか、イグナシオが少し遠くに行ってしまったような――そんな気分だった。
今は、二人の様子を見たくない。
(お芋、もっとたくさんあったら良かったのに……)
握り締めていた最後のお芋の皮を、袋にぎゅうと押し込む。
「アグネス様、どうかしたんですか」
「えっ?」
いつの間にか、傍らにはイグナシオが立っていた。ひどく心配そうな表情だ。
「な、何でもないの。少しぼーっとしちゃって……」
「すぐに休みましょう」
「違うの。わたしは――」
「女将さん! アグネス様の体調が優れないようです。すぐに休ませます」
イグナシオがわたしを抱き上げると同時に、女将さんが心配そうに振り返った。
「アグネスちゃん、大丈夫かい? 気が付かなくて悪かったね」
「女将さん、わたしは元気ですから――」
「今日は暇だから気にしないで大丈夫だよ! 後でミルク粥を持って行くから、ゆっくり休みな。神官さん。こっちはもう良いから、アグネスちゃんを頼むね」
「ありがとうございます」
女将さんに頭を下げると、イグナシオは歩き出した。
「わたしは大丈夫だよ」
「……元気がありません」
少し声を落としたイグナシオ。
わたしは、それ以上何も言えなかった。
「アグネスさんよね? どうかしたの?」
ホールに立ったままだったベリンダさんが、こちらを心配そうに見つめている。
落ち着いた大人の声音。同性のわたしでも見惚れてしまうほどの美女だ。
わたしは、思わずイグナシオの胸に顔を埋めた。
「アグネス様を休ませます。注文は女将さんにお願いします」
「わかったわ……アグネスさん、お大事にね」
わたしは、何も返せないままイグナシオの胸元を握り締めた。
これじゃあ、まるで小さな子どもだ。でも、何故かこうすることしか出来なかった。
そうして、階段を登る音が響いて、気が付けば部屋のベッドに寝かされていた。
「アグネス様、大丈夫ですか」
「……うん」
本当は大丈夫じゃない。
でも、言えるわけがなかった。
「ゆっくり休んでください」
わたしの肩まで薄手の毛布を掛けると、イグナシオは傍らに腰を下ろした。
「……ベリンダさんは良いの?」
「誰のことですか?」
「えっ……さっきのお客さんのことだよ」
そう返すと、彼は少しだけ考え込んだ。
「……ああ、バディさんですね! 女将さんに任せましたから」
(名前、覚えてないんだ……)
いつも通り微笑む彼に、ホッとする反面、どこか複雑な感情が胸に残る。
「ねぇ、イグナシオ……」
「どうしましたか?」
わたしは、小さく手を握り締めた。
「イグナシオは……わたしのこと、どう思ってるの?」
ほんの僅かに目を見開いた彼の瞳が、ふわりと弧を描く。
「愛していますよ」
「えっ……」
時間が、止まった気がした。
イグナシオがわたしを見て柔らかく微笑む。
「いえ……愛という言葉などでは、アグネス様への想いを表すことは到底できません。私のこの想いは――……アグネス様?」
恥ずかしくなったわたしは、毛布を被って後ろを向いた。
(愛って、あれだよね。家族愛、的な……)
「アグネス様? どうしたんですか?」
「……何でもない。ちょっと眠くなったの」
「ゆっくり休んでくださいね」
「傍にいますから」と優しい声が響いて、わたしは瞼を閉じた。
胸の内を渦巻くこの感情が何なのか、わたしはまだ知らなかった。




