崩れ落ちる
旧道を戻り始めてすぐ、俺は背後を振り返らなかった。
坑口から離れるにつれ、肌にまとわりついていた、湿った冷気が薄れていく。
夏の陽射しと草の匂いが戻ってきたことで、胸の奥に張りつめていたものも、ほんの少しだけ緩んだ。
先頭のヘレンは足を止めず、首だけを巡らせて岩場のほうを見た。
「中からアレが追ってくる様子はないな」
「みたいだな」
あの暗がりにいた実体が、すぐ外まで出てくる気配はないらしい。
もちろん、坑内のことが分かったわけではない。あの狭い場所に戻れば、また同じものと出くわすかもしれない。
それでも、ひとまず外へ出られたという安堵が形になるより早く、足の下で地面が震えた。微かな揺れだった。
だが、足の裏から伝わった鈍い響きに、俺は思わず足を止める。坑内の奥で一度だけ聞いた、腹の底へ沈むような低い音に似ていた。
「……危ねぇ!」
ヘレンの声とほとんど同時に、背後で岩が砕けた。
「下りるぞ!!」
再びのヘレンの叫びをかき消すかのように轟音が斜面に響く。
俺はリケとリディを岩場から離れる側へ先に走らせた。ヘレンもすぐに進路を変え、旧道の脇にある草地へ駆け下りる。
俺も3人の後を転がってきた石を避けながら走った。
背後では、岩と土が次々に崩れる音が続いている。
大きな石が地面を打つたび、足元まで震えが届いた。舞い上がった土煙が風に押され、俺たちのいる方へ流れてくる。
やがて、ひときわ大きな音がして、それも途切れた。細かな砂が落ちるパラパラという音だけが、しばらく続く。
「止まれ。そこから動くな」
ヘレンが土煙の向こうを見据えたまま言った。
俺たちは草地で足を止めた。坑口のあった岩場からは離れているが、今はむやみに動かない方がいい。
「怪我した奴はいるか」
「俺はない」
「わたしも」
「私もです」
3人の声を聞いて、俺は息を吐いた。
土と埃をかぶっただけで、誰も傷を負ってはいない。風が少しずつ土煙をさらっていく。
岩場の輪郭が見え始めたころ、俺たちの近くまで転がってきた土の塊や小石が目に入った。その中に、周囲の岩とは違う淡い色のものが混じっている。
「親方」
リケが、その一つを指した。
「あれ、見た目はさっきの欠片に近いです」
手のひらほどの塊と、その周りに散った小さな欠片。どれも崩れた斜面のすぐそばではなく、ここまで転がってきたものだった。
「拾ってもいいですか?」
「崩れたところには近づくな。そこまで来た分だけにしてくれ」
「はい、親方」
リケは頷き、安全な足元にある淡い塊だけを手早く拾った。いくつかを袋へ収めると、口を閉じて背負い直す。
「それも合わせて調べよう」
「分かりました」
その間も、ヘレンは斜面から目を離していなかった。
土煙がほとんど晴れ、「坑口だったはずのところ」を見て、俺は言葉を失った。
岩肌の根元にあった黒い裂け目は消えている。
入口の周りだけが崩れたのではない。土と岩が斜面を覆い、かつての狭い隙間をすっかり埋めていた。脇に残っていた古い木組みも、土砂の間からわずかに覗いているだけだ。
「完全に塞がりましたね」
リディが静かに言った。
彼女は土砂の向こうへ意識を向けるように目を細め、それから小さく首を振った。
「坑内から感じていた圧のようなものも、土砂越しだと判別しにくいです」
「そうか」
アレが何かをしたのか。低い音と崩落に関係があるのか。
それとも、長く放置された坑道が、たまたま今崩れただけなのか。
今の俺たちには分からない。
ヘレンは崩れた土の広がりと、上の岩場を順に見ていた。しばらくしてから、俺へ顔を向ける。
「ここを掘り返すのは無理だな。上もまだどうなってるか分からない」
「そうだな」
入口だった場所には、大きな岩が重なっている。
今の人数と持ち物で手を出せる崩れ方ではない。仮に掘り始めたとしても、奥まで通じる道を作れる保証はないし、また土砂が落ちてくるかもしれない。
あの淡い筋の先も、実体が退いた岩陰も、もう確かめようがなかった。
だが、袋には最初に拾った欠片がある。今、追加で回収したものもある。
「中に戻るのは不可能だな」
俺は塞がった斜面を見たまま言った。
「よし、持ち帰った分を工房で調べよう。それから先のことは、その後で考える」
「はい、親方」
「分かりました」
リケとリディが答え、ヘレンも一度だけ頷いた。
「なら、離れるぞ、エイゾウ。ここに長居する理由はない」
「ああ。旧道を戻ろう」
暗い坑口があった場所には、もう土と岩しか残っていない。
ハッキリ分かるかもしれないところで、追加の手がかりが失われたことに未練がないわけではないが。今は3人を無事に連れて帰ることの方が大事だ。
俺は完全に塞がった斜面に背を向けた。
ヘレンが先頭へ戻り、リディとリケが続く。俺は3人との間を確かめながら、来た旧道を南へ歩き始めた。




