坑道2
コス、と小さな音が消えた。
後には、水滴が岩を打つ音だけが残る。
ヘレンは角の向こうの暗がりを見たまま、低く言った。
「さっきの実体が動いた音じゃないな。アタイにはそう聞こえる」
「ああ」
あの何かが岩を擦って退いたときの、ガリガリした音とは違っていた。今のはもっと軽い音だ。
実体が岩陰へ退いた先には、淡い色の筋が見えている。
俺はヘレンを見る。ヘレンは一度だけ頷き、来た側にある平たい岩へ視線をやった。
何かあれば、すぐあそこまで戻れればいい。その範囲で、筋の根元へ行く。
リケとリディも、同じ岩と俺たちを順に見た。
「行こう。ただし、筋の根元までだな」
「分かった」
ヘレンが先に曲がり角を越えた。
濡れた床へ足を置く前に、ヘレンは岩陰と、実体が消えた隙間の周りへ目を走らせる。何かがこちらへ出てくる動きは、俺の位置からは見えない。
ヘレンは武器を抜かないまま、すぐに動ける姿勢を崩さず一歩進んだ。
リディがその後ろへ続く。俺も〝薄氷〟を抜いたまま、リディの通った場所を選んで足を運んだ。
リケは少し後ろ、戻る側を照らせる位置にいる。彼女の持つ灯りが、俺たちの足元と、背後へ続く岩の並びを淡く浮かべていた。
角の先は、思っていたより少し広い。
水気は減っていたが、乾いているわけではない。壁を伝った雫が細く床へ落ち、黒い岩の間に白とも灰ともつかない筋が走っている。
その筋は壁の途中で消えず、斜めに下って床際まで続いていた。
ヘレンが二歩、三歩と進む。
俺たちも間を詰めすぎないようについて行く。
実体が退いた岩陰は、さらに先の方だったはずだ。だが、淡い筋の根元は、もう手を伸ばせば届く距離にある。
リディが足を止める。
「エイゾウさん。足元から、奥と同じ系統の『重さ』を感じます」
リディは、自分の靴先の少し前を見ていた。淡い筋が濡れた床へ触れている、その辺りだ。
「親方、灯りを下へ向けます」
「ああ、頼む」
リケが壁から落ちる雫を避けながら、腕をゆっくり下ろすと、明かりが床をなぞる。
そこで初めて、筋の根元に小さな欠片があるのが見えた。
周囲の黒い岩とは違う色だ。濡れた泥に半分埋もれ、淡い面だけを覗かせている。
さっきの音は、これが剥がれ落ちたものだったのだろう。
「リケ、取れそうか」
「はい。ただ、灯りを持ったままでは、足元を見ながら拾えません。すみません、いいですか?」
リケが灯りを俺へ差し出した。
「おう」
俺は右手の〝薄氷〟を岩陰へ向けたまま、左手で灯りを受け取る。炎を濡れた壁へ寄せすぎないよう支えると、リケは空いた両手でしゃがみ込んだ。
泥を大きく掻かないように、指先だけで欠片をつまみ上げる。
リケは立ち上がり、掌の上でそれをゆっくり返した。
「親方。見た目が、今まで坑道で削られていた岩とは違いますね」
親指の腹で、側面をそっとなぞる。
「手触りも違いますし、中の粒も均一ではありません。工房の道具があれば、もう少し詳しく分かるかもしれません」
「リディから見てどうだ」
「はい」
リディはリケの掌へ顔を寄せた。触れずにしばらく欠片を見つめ、それから静かに息を吐く。
「先に感じていたものと、完全に同じかは分かりません」
一度言葉を切り、リディは続けた。
「ですが、この欠片からも、同質の『重さ』を確実に感じます」
欠片と、さらに先へ続く感覚。
それが何を意味するのかは、まだ何も分かってはいない。実体の正体も分からないままだ。
それでも俺たちは曲がり角の先へ入り、筋の根元まで来た。持ち帰って調べられるものも手に入った。
ここから先へ行けば、実体が退いた岩陰へ踏み込むことになる。
俺が知りたいからといって、家族をそこへ連れて行く理由にはならないな。
我が儘を通すにしても、ここまでだ。
「今日はこれを持って戻ろう」
俺が言うと、ヘレンがすぐに頷いた。
「それがいい。アタイが先に戻る」
「はい、親方」
「分かりました」
俺は灯りをリケへ返す。リケがそれを受け取り、来た側の床を照らした。
ヘレンが曲がり角へ向けて歩き出す。
リディが続き、リケは欠片を握り込んだまま、その後ろへ下がった。
俺は最後に、淡い筋へ目をやった。
そのとき、ずっと先の暗がりから、低い音が一度だけ響いた。
腹の底へ沈むような重い音だった。だが、続く物音はない。
ヘレンも足を止めず、俺たちは来た側へ歩みを進める。
今得たものを持ち帰り、調べる。その上で、またここへ来るかどうかを決めればいい。
そう思いながら、俺は抜いたままだった〝薄氷〟を静かに鞘へ収めた。




