廃鉱4
先頭を慎重に進んでいたヘレンの手が、無言のままスッと上がる。
それに合わせて、俺たちの足もピタリと止まった。俺の肩が、ほんの一瞬だけ反射的に強張る。坑内の冷気が、不意に肌にまとわりついてくるように感じられた。
先ほどまでなら、この坑道をどこまで進めるか確かめることだけを目標にしていた。
だが、あの角の先に進めば、ただの確認では済まないかもしれない。
四人で無事に帰る。深追いはしない。
出発前に口にしたあの遠征の原則が、頭の中をよぎる。いつ頭上の岩が崩れるとも、足元の泥が抜けるとも知れないこの廃鉱の中で、その言葉は俺たちを繋ぐ確かな道標だ。
俺はまだ、戻るとも進むとも言っていない。
暗闇の中で、まずは目の前の事実を一つずつ確かめる。
ヘレンは濡れた岩肌に肩を沿わせるようにして、壁へ身を寄せた。足元の泥を跳ねさせないよう、ごくわずかな重心移動だけで、曲がり角へと半歩だけ近づく。
彼女の腰には武器があるが、手を伸ばす気配はない。暗がりの中で振りかぶることも、鍔鳴りを鳴らすこともせず、ただ角の内側へ視線を向けていた。
その後ろで、リケは灯りを胸の高さより少し上に保っている。壁からにじむ水気や、頭上からの雫を避けるため、炎を決して前へ突き出さない。
「親方、後ろの平たい岩までなら戻れます」
リケの声は低く、坑道に響かないよう丁寧に抑えられていた。
彼女が示したのは、先ほど俺自身が片足を乗せ、ゆっくりと体重を移してみても沈むことのなかった、あの岩までの区間だ。確認できた範囲の足場だけを、彼女は事実として報告してくれた。
ヘレンの少し後ろにいたリディは、角の暗がりを見たまま、静かに告げた。
「圧は、奥へ続いています。今の音や、角の向こう側に圧の正体がいるかどうかは……」
その声は平坦で、怯えはうかがえない。魔力や未知の気配を感じ取ることに集中し、感覚で捉えたものをありのままに伝えてくれている。
俺は声を出さず、頭の中で方針を固めた。
リケが示してくれた、平たい岩まで戻れる道を残す。そのうえで、角の先を少しだけ見る。危なければ、すぐその岩まで下がる。
俺はヘレンへ視線を向け、小さく頷いた。
ヘレンが泥の音を立てずに、さらに半歩、角へ身を乗り出す。俺は退路を塞がない位置を選び、彼女のすぐ後ろへと足を運んだ。
入れ替わるように、リディが一歩下がる。泥に足をとられないよう慎重に肩をかわし、彼女は灯りを持つリケの横、平たい岩のある側へと退いた。
リケが水気を避けて灯りを維持し、リディが背後の足元と、来た道の暗がりへ目を向ける。短い動作で、俺たちが今とるべき配置が整った。
曲がり角の先には、まだ灯りが届いていない。
リケが、灯りを水気から離したまま、わずかに横へ動かした。ヘレンの身体に遮られていた炎の端が壁の影を押し退け、角の向こうの暗がりへと届く。
光が滑った先の濡れた床に、砕けた小石が散っていた。黒い泥の上に、表面が削れたばかりのような白い欠けが落ちている。
あの音の跡かどうかは分からない。
だが、そのすぐ奥。古い坑木と、黒い岩の隙間。
そこに、何かの輪郭が浮かび上がっていた。
鈍く光る目のようなものが一対、灯りの縁でわずかに揺れる。硬質な表皮の一部が、岩の継ぎ目に沿って鈍い反射を返した。
森で狩ってきた獣とも、街道筋で目にする動物とも違う。坑内の暗闇に馴染んだそいつの正体は、俺には分からない。
相手は、灯りとこちらの気配に反応したのか、岩と坑木のあいだを埋めるように身を動かした。硬質な身体の一部が、狭い通路へとせり出してくる。
奥へ続く圧の正体と同じものかは分からない。ただ、明確な実体を持った何かが、俺たちの行く手を塞いだ。
ヘレンは武器へ手を伸ばさなかった。構えることもなく、静かに角の内側を見据え、じっとそこに立ちふさがっている。
俺は腰に差した〝薄氷〟の柄へ、指先をかけた。
引き抜かず、ただ次の瞬間に何が起きても対応できるよう、腕に力をためる。俺の手のひらに、柄巻きの感触が冷たく伝わってくる。
銘した通りだな、と場違いな感想が頭に浮かぶ。
水気の冷たい匂いと、古い坑木が腐った匂いが、狭い空間で混じり合う。
足元の水溜まりが揺れるたび、壁の影が奇妙な形に伸び縮みした。
ぽつり、とどこかで雫が落ちる音が、やけに大きく聞こえる。
奥の圧は消えていない。角の先の実体も、動いたきり、こちらをじっと見据えている。
狭く濡れた坑道で、俺たちは静かに対峙していた。




