第五章 大晦日の祝杯と、消えた採点表
第五章 大晦日の祝杯と、消えた採点表
大晦日。
アスカは、久しぶりにクローゼットの奥を整理していた。
冬物の服。
昔買ったバッグ。
いつか着ようと思って、そのままになっていたワンピース。
そして、奥の奥から、一本のジーンズが出てきた。
「うわ、懐かしい!」
数年前に買った、お気に入りのジーンズだった。
アスカは、そっと広げた。
「これ、また気持ちよくはけたらいいなあ」
以前なら、ここで体重計に乗っていたかもしれない。
目標の数字を決めて、食事のルールを書き出して、達成できなければ自分を責める。
けれど、今は少し違う。
「まずは、無理なく生活を整えよう」
睡眠を削らない。
忙しい日は、便利な食品も上手に使う。
食べられるときには、いろいろな食材を楽しむ。
体調を見ながら、少しずつ体を動かす。
それから、好きなものを食べた日も、必要以上に自分を責めない。
「うん。これなら、続けられそう」
アスカは、ジーンズを丁寧にたたんだ。
そのとき。
お腹の奥で、ぽん、と音がした。
ぽん。
ぽぽぽん。
「……はいはい。胃腸町ね」
もう驚かない。
アスカは目を閉じた。
————————————————————
胃腸町の中央広場。
黒咲厳が、体重計の前に立っていた。
「さあ、長谷川さん! 測定だ!」
「……何をですか?」
「体重に決まっている!」
「ここ、お腹の中ですよ?」
「細かいことはいい!」
「いや、けっこう大事だと思うんですけど……」
ゲンは、採点表を掲げた。
「目標の数字に届かなければ、努力不足! 計画を見直し、さらに厳しく管理する!」
アスカは、体重計を見つめた。
数字は、健康状態を考えるうえで役立つことがある。
でも、数字だけではわからないこともある。
体調。
気分。
眠れたかどうか。
疲れがたまっていないか。
食事を楽しめているか。
無理なく生活できているか。
そして、自分が自分をどう扱っているか。
アスカは、ゆっくりと顔を上げた。
「黒咲さん」
「何だ!」
「私、数字を気にするのをやめるわけじゃないんです」
「ほう!」
「体重も、健康診断の結果も、必要ならちゃんと確認します。でも……数字が思い通りじゃなかったからって、私の一日が全部ダメだったことにはならないでしょう?」
ゲンは黙った。
アスカは続けた。
「昨日、ちゃんと眠れたこと。仕事を頑張ったこと。簡単でもご飯を用意したこと。おいしいって笑えたこと。そういうのも、私の生活の一部なんです」
ロズマリンさんが、ゆっくりとうなずいた。
「その通りです」
アスカは、ゲンを見た。
「黒咲さん。私、健康になりたいんです。だから、これからも教えてほしいことはあります」
「……ならば、もっと厳しく――」
「でも!」
アスカの声が、広場に響いた。
「食べるたびに、失敗した気持ちになるのは、もう嫌なんです」
住民たちが、静かに見守る。
「私に必要なのは、毎日百点を取ることじゃない。自分の生活に合ったやり方を見つけて、長く続けることなんです」
ゲンは、手元の採点表を見つめた。
そこには、カロリー、タンパク質、脂質、糖質、摂取時間、運動量……。
細かな項目がびっしりと並んでいた。
けれど。
「……生活に合った、やり方」
ゲンは、小さくつぶやいた。
彼は、指導することに熱心だった。
努力すれば変われる。
計画を立てれば進める。
数字を確認すれば、課題がわかる。
その考え自体は、間違いではない。
けれど、いつの間にか、数字を守ることそのものが目的になっていた。
目の前の人が、どんな一日を過ごしているのか。
何に疲れ、何を楽しみにしているのか。
そこを聞くことを、忘れていたのかもしれない。
ゲンは、長い沈黙のあと、採点表を下ろした。
「……長谷川さん」
「はい」
「私は……点数をつけることに、こだわりすぎていたのかもしれない」
「えっ?」
「食事を改善するための数字が、いつの間にか、人を評価する数字になっていた」
ゲンは、苦い顔で頭をかいた。
「すまなかった」
アスカは、少し驚いた。
そして、ふっと笑った。
「じゃあ、これからは、たまに褒めてくださいね」
「……褒める?」
「はい! できたことも、ちゃんと見てほしいです」
ゲンは腕を組んだ。
「うむ……」
しばらく考えたあと、真剣な顔で言った。
「では、今日の長谷川さんは……」
アスカは、身構えた。
「はい……」
「自分の生活を振り返り、無理のない改善策を考えた。これは、プラス10点だ!」
「点数制、まだ続くんですか!?」
広場が、どっと笑いに包まれた。
ロズマリンさんは、扇子で口元を隠した。
「まあまあ。少しずつ変わっていけばよろしいのです」
ゲンは、採点表を見つめた。
そして、おもむろに一枚の紙を取り出した。
新しい指導用紙だった。
そこには、今までなかった項目が追加されていた。
『本人の生活事情・好み・続けやすさ』
「……これからは、最初に話を聞くことにしよう」
ゲンは、照れくさそうに言った。
「それと、できたことも確認する」
「黒咲さん……!」
アスカは、ぱっと顔を輝かせた。
「それ、いいと思います!」
ロズマリンさんは、満足そうにうなずいた。
「では、本日の町内会議は、これにて閉会といたしましょう」
その瞬間。
町の時計が、十二時を告げた。
ゴーン。
ゴーン。
大晦日の夜が明け、新しい年がやってきた。
広場には、食べ物を持った住民たちが集まっていた。
もち麦のおにぎり。
豆腐料理。
色とりどりの野菜。
焼きたてのギョーザ。
唐揚げ。
温かいラーメン。
それぞれが、好きなものを、無理のない範囲で楽しんでいる。
熱血消防団は、香り豊かなスパイスを振る舞っていた。
お掃除特戦隊は、広場をせっせと掃除している。
サラシア警備員は、相変わらず無表情で警備中。
そして、黒咲厳はというと。
「……このギョーザ、うまいな」
ひと口食べて、ぽつりと言った。
アスカが、にやりと笑う。
「黒咲さん、今、何点ですか?」
ゲンは、ぴたりと止まった。
「……採点はしない!」
「ええーっ! そこは百点って言ってくださいよ!」
「料理の評価と食事の評価は別だ!」
「急に真面目!」
また笑い声が広がった。
アスカは、糖質オフのビールを手に取った。
もちろん、飲む量や頻度には気をつける。
けれど、今夜は、新しい年を迎えたことを祝って、みんなと乾杯する。
「皆さん!」
アスカは、グラスを高く掲げた。
「今年も、おいしく食べて、元気に暮らしましょう!」
住民たちが、一斉にグラスや茶碗を掲げた。
「かんぱーい!」
ロズマリンさんは、紫色の扇子を胸元に添え、穏やかに微笑んだ。
「ええ。明日もまた、おいしく食べられる町でありますように」
胃腸町に、温かな笑い声が響いた。
————————————————————————-
その頃、現実の世界。
長谷川アスカは、ソファに座っていた。
テーブルには、食べ終わった皿。
スマートフォンには、ジムからの新しい連絡が届いている。
『次回のセッションでは、日々の食事で困っていることも聞かせてください』
アスカは、そのメッセージを見て、ふっと笑った。
「……うん。これなら、話せそう」
彼女は、お気に入りのジーンズを手に取った。
いつか、また気持ちよくはける日が来るかもしれない。
その日がいつになるかは、まだわからない。
でも、焦らなくてもいい。
明日も仕事がある。
朝ごはんを食べて、出かけて、帰ってきたら、できる範囲で夕飯を用意する。
疲れたら、便利なものにも頼る。
好きなものも、楽しむ。
そして、自分を責めすぎない。
「よし!」
アスカは立ち上がった。
「明日も、おいしく食べよう!」
お腹の奥で、小さく音がした。
ぽん。
まるで、町内会長からの返事のように。
アスカは笑って、冷蔵庫の明かりを消した。
胃腸町の夜は、今日も平和だった。
おしまい。
最後までお読みいただきありがとうございました。
お話の着地点は、「何を食べても大丈夫」ではなく、「健康を大切にすることと、食べる喜びを大切にすることは、両立できる」 というところです。
アスカもゲンも、いきなり完璧には変わりません。
でも、相手の暮らしに耳を傾けることで、少しずつ変わり始める。
ロズマリンさんの町内会は、明日もきっと忙しいでしょうね。
だって、アスカのお腹には、まだまだおいしいものとの出会いが待っているのですから。
「食事の点数は詳しくても、食べる人の暮らしを忘れてはいけない」
これはダイエットだけではなく、何かを頑張っている人すべてに通じるテーマだと思います。
アスカも、ゲンも、読者の皆さまも、物語を通して少し肩の力を抜ける。そんな作品になっていたら幸いです。




