新章 第5章 大晦日の食卓! 無糖豆乳スパイスチャイは、みんなのメシア!
第5章 大晦日の食卓! 無糖豆乳スパイスチャイは、みんなのメシア!
大晦日。
今年最後の日だというのに、長谷川アスカは、朝から絶望していた。
「……寒い」
布団から顔だけを出し、窓の外を見る。
空はどんよりと曇り、窓ガラスの向こうでは、冬の風が木々を揺らしている。
こんな日に、わざわざ外へ出る必要があるだろうか。
いや、ない。
食材なら、冷蔵庫にある程度入っている。
冷凍庫には、いざというときのための冷凍おにぎりもある。
お湯を沸かせば、スープくらいは作れる。
つまり。
「今日は、家から一歩も出ずに年を越せる!」
アスカは布団の中で、勝利のガッツポーズをした。
そのときだった。
隣の家から、聞き覚えのある音が響いた。
ブオオオオオオオオン!
「……まさか」
ブオオオオオオオオン!
「ちょっと待ちなさいよ!」
アスカは布団を蹴飛ばして起き上がった。
あの音。
あの、冬の静寂を容赦なく切り裂く音。
間違いない。
黒咲ノエルの、愛用ブレンダーである。
「大晦日までスムージーかいっ!」
窓を開けて叫ぼうとした、その瞬間。
ピンポーン。
玄関のチャイムが鳴った。
扉を開けると、そこには案の定、ノエルが立っていた。
手には、いつものスムージー。
そして、脇にはタブレット。
「おはようございます、アスカさん。年越しの食事について、効率的なプランを考えてきました」
「帰って」
「まだ説明していません」
「説明を聞く前から、だいたいわかるのよ!」
ノエルは気にした様子もなく、タブレットを操作した。
「年末年始は、買い物客が増加します。調理に時間をかけると、片付けも遅くなります。そこで、食事の準備時間を短縮し、必要な栄養を確保しつつ、後片付けも最小限にするプランを――」
「ノエル」
「はい?」
「あなた、大晦日くらい、のんびりしようとは思わないの?」
「のんびりすることも、計画に組み込めます」
「そういうことじゃないのよ!」
アスカは額を押さえた。
この男、悪気がないのが厄介なのだ。
本人は本気で、みんなの役に立とうとしている。
ただし、その役立ち方が、いちいち効率的すぎる。
そこへ、紫色の扇子を手にした優雅な女性が現れた。
わが家の腸内会長、ロズマリンさんである。
「おやおや。年の瀬だというのに、ずいぶんと忙しそうですね」
「ロズマリンさん! 聞いてくださいよ! この人、大晦日の食事まで効率化しようとしてるんです!」
「ほう」
ロズマリンさんはノエルを見た。
「ノエルさん。あなたにとって、食事とは何でしょう?」
「身体に必要なものを、適切に摂取するための行為です。そこに時間や費用の無駄がなければ、なおよいと考えます」
「なるほど」
ロズマリンさんは、静かにうなずいた。
「では、食事の時間に誰かと笑い合うことや、好きな味をゆっくり楽しむことは、無駄なのでしょうか?」
「それは……」
ノエルは、ほんの少し考えた。
「無駄とは言いません。ただ、必須ではないと思います」
アスカは、思わず天井を仰いだ。
「この人、まだそこなのね……」
ロズマリンさんは扇子を広げた。
「それでは、本日の胃腸町の課題は決まりましたね」
「課題?」
「効率よく食べることと、食事を楽しむこと。その二つは、本当に両立しないのでしょうか?」
ノエルは、タブレットを見つめた。
アスカは、ため息をついた。
「……とりあえず、寒いからお茶にしない?」
こうして、大晦日の胃腸町に、最後の小さな騒動が幕を開けた。
## 一 メシア降臨! 豆乳スパイスチャイ!
アスカは台所へ向かった。
料理は好きではない。
できるなら、包丁を使う回数は少なくしたい。
鍋もフライパンも、できれば一つで済ませたい。
しかし、温かい飲み物を作るくらいなら、苦ではなかった。
「さて、と」
まずは紅茶を少し濃いめに淹れる。
そこへ、生姜を加える。
アスカは、いつものように無調整豆乳を取り出した。
そして、ふと思いつく。
「……今日は、ちょっとスパイスを入れてみようかな」
棚から取り出したのは、ガラムマサラ。
ほんのひとつまみ。
紅茶に生姜、無調整豆乳。そして、少量のガラムマサラ。
砂糖は入れない。
豆乳を加えて、沸騰させないように温める。
やがて、カップから、ふわりと香りが立ち上った。
紅茶の香り。
生姜の風味。
豆乳のまろやかさ。
そこに、ガラムマサラの複雑なスパイスの香りが重なる。
アスカはカップを持ち上げ、満足げにうなずいた。
「できた!」
そして、胸を張る。
「無糖・豆乳スパイスチャイ! わが家の冬のメシアです!」
「メシア?」
ノエルが首をかしげた。
「そう! 寒い日に、温かい飲み物を持って、ほっとひと息つく。最高じゃない!」
「紅茶、豆乳、生姜、ガラムマサラ……」
ノエルは、すぐさま分析を始めた。
「材料費は比較的少額。調理時間も短い。器具も最小限で済みますね」
「でしょ?」
「ただし、通常の紅茶と比較した満足度の差については、数値化できません」
「数値化しなくていいの!」
アスカは、ノエルの前にカップを置いた。
「飲んでみたら?」
「いただきます」
ノエルはカップを両手で持った。
湯気が、顔の前をゆっくりと流れていく。
ひと口。
……。
もうひと口。
……。
アスカが、じっと見つめる。
「どう?」
ノエルは、すぐには答えなかった。
カップを持ったまま、もう一度、香りを確かめるように息を吸う。
「……温かいですね」
「そりゃ、温めたもの」
「いえ、そういう意味だけではなくて」
ノエルは、少しだけ困ったように笑った。
「なんというか……落ち着きます」
アスカは目を丸くした。
ロズマリンさんは、扇子の向こうで微笑んだ。
「ほう。これは興味深いですね」
「え? 何がですか?」
「ノエルさんが、飲み物の評価を数値で説明しなかったことですよ」
「……あ」
ノエルは、自分のカップを見た。
おいしい。
そう思った。
けれど、その理由を、すぐに数字に置き換えようとは思わなかった。
香りが好きだ。
温かさが心地よい。
口に含んだときの、まろやかな味わいがいい。
そして何より。
今は、急いで飲み干したくなかった。
「……もう少し、ゆっくり飲んでもいいですか?」
アスカは、にっこり笑った。
「もちろん!」
ノエルは、カップを両手で包み直した。
効率だけを考えるなら、飲み物は短時間で飲み終えてもいい。
けれど。
ゆっくり味わいたいと思ったなら、その時間にも意味があるのだろう。
ノエルは、初めてそんなことを考えた。
## 二 効率男と採点男、それぞれの正しさ
そこへ、玄関から威勢のいい声が響いた。
「おーい! アスカ、いるか!」
黒咲厳だった。
その姿を見たノエルは、思わず背筋を伸ばした。
「兄さん」
「おう。なんだ、お前も来ていたのか」
厳は、ノエルの手にあるカップを見た。
「……何を飲んでいる?」
「無糖の豆乳スパイスチャイです」
「長い名前だな」
「紅茶に生姜と無調整豆乳、それにガラムマサラを少し入れたものです」
「ほう」
厳はアスカを見た。
「お前、また妙なものを開発したのか」
「妙なものとは失礼ね! おいしいんだから!」
「なら、俺にも一杯くれ」
「飲むんかい!」
アスカは呆れながらも、もう一杯を用意した。
厳は受け取ると、ひと口飲んだ。
「……なるほど」
「どう?」
「生姜の風味があるな。スパイスも効いている」
「それだけ?」
「温かい。今の季節には悪くない」
アスカは、じっと厳を見つめた。
「……あんた、今、何点って言わなかったわね」
厳は、ぴたりと止まった。
「……」
「採点しないの?」
「いや……」
厳はカップを見つめた。
「点数をつける必要がないものも、あるだろう」
アスカは、思わず口を開けた。
「ゲンさんが!?」
「驚きすぎだ!」
ノエルが、くすりと笑った。
厳は弟を見た。
「何がおかしい」
「いえ。兄さんも変わったんだなと思いまして」
「お前もだろう」
「……そうですね」
ノエルは、静かにうなずいた。
以前の自分なら、この飲み物を見ても、まず材料費と調理時間を計算していただろう。
そして、もっと効率的な方法があれば、そちらを勧めていたかもしれない。
しかし今は、違う。
自分が好きなスムージーを飲むことも、アスカがこの飲み物を楽しむことも、どちらも間違いではない。
同じものを選ぶ必要はないのだ。
「兄さん」
「なんだ」
「僕は、効率を大切にすること自体は、間違っていないと思っています」
「そうだな」
「時間を節約できれば、ほかのことに使えます。費用を抑えられれば、助かることもあります」
「その通りだ」
「でも……」
ノエルは、カップに視線を落とした。
「効率だけで、すべてを判断するのは違うんですね」
厳は、しばらく黙っていた。
やがて、腕を組み直す。
「俺も、点数をつけること自体が悪いとは思っていない。目安になることもあるし、振り返るきっかけにもなる」
「はい」
「だが、点数が低いからといって、その食事を楽しんではいけないわけじゃない」
アスカは、二人の顔を交互に見た。
「……なによ。兄弟そろって、今日はずいぶんまともなことを言うじゃない」
「普段からまともだ!」
「普段からまともです!」
二人の声が、見事に重なった。
アスカは吹き出した。
「はいはい。そういうところは、そっくりね!」
ロズマリンさんも、優雅に笑った。
「効率も、採点も、使い方次第。大切なのは、それらが人の喜びを押しつぶさないことなのですね」
窓の外では、冷たい風が吹いていた。
けれど、部屋の中には、温かな香りが漂っていた。
## 三 みんな違って、みんなおいしい!
「ところで、アスカ」
厳が、テーブルを見回した。
「年越しの食事はどうするんだ?」
「……今、その話をする?」
「大晦日だぞ」
「知ってるわよ!」
アスカは、冷蔵庫を開けた。
中には、油揚げ、チーズ、梅干し、豆腐。
冷凍庫には、冷凍おにぎり。
そして、棚には、スープの材料。
豪華な料理を作る予定はない。
というより、作る気がない。
「よし。持ち寄りにしましょう!」
「持ち寄り?」
ノエルが反応した。
「各自、好きなものを用意して、みんなで食べるの。私は、カリカリ青ウメのおにぎりと、油揚げ梅チーズピザ。それから、温かいスープを用意するわ」
「調理時間は?」
「ノエル」
「はい」
「今は聞かなくていいの!」
「……わかりました」
ノエルは、素直にうなずいた。
その様子に、アスカは少しだけ目を細めた。
以前なら、ここで必ず何かを計算していたはずだ。
しかし今は、彼もまた、食卓を楽しみにしているようだった。
夕方。
胃腸町の住民たちが、少しずつ集まってきた。
テーブルには、アスカの料理が並ぶ。
カリカリ青ウメのおにぎり。
油揚げを土台にした梅チーズピザ。
湯気の立つスープ。
そして、温かな豆乳スパイスチャイ。
ノエルは、自分のスムージーを持ってきた。
「僕は、これが好きなので」
アスカは、笑顔で答えた。
「いいじゃない! 好きなものを持ってくる。それでいいのよ」
「アスカさんは、スムージーを飲まないんですか?」
「今日はチャイの気分なの!」
「なるほど」
ノエルは、それ以上、何も言わなかった。
誰かが、おにぎりを手に取る。
別の誰かが、油揚げ梅チーズピザにかぶりつく。
「おいしい!」
「この梅の酸味がいいね!」
「スープ、温まるなあ」
「このチャイ、スパイスの香りが面白い!」
食卓に、笑顔が広がっていく。
誰も、同じものばかり食べてはいない。
誰も、同じ飲み物を選んでいるわけではない。
それでも、みんなが一緒に食事を楽しんでいた。
ノエルは、その光景をじっと見つめた。
自分がスムージーを好きなこと。
アスカが手間をかけずに食事を用意すること。
厳が点数を目安にすること。
住民たちが、それぞれの好きな味を楽しむこと。
そのどれか一つが正しくて、ほかが間違っているわけではない。
大切なのは、自分のやり方を、誰かに押しつけないこと。
そして、自分自身の「好き」も、きちんと大切にすること。
「……そうか」
ノエルは、小さくつぶやいた。
「僕は、みんなに効率のいい食事を教えようとしていた。でも、みんなが求めていたのは、必ずしも同じ食事じゃなかったんですね」
ロズマリンさんは、ゆっくりとうなずいた。
「ええ。誰かにとっての便利さが、別の誰かにとっての喜びになることもあります。けれど、喜びの形は、一つではないのです」
ノエルは、スムージーをひと口飲んだ。
いつも飲んでいる、慣れ親しんだ味だった。
やっぱり、自分はこれが好きだ。
そう思えたことが、なんだかうれしかった。
## 四 採点表は、そっとしまって
食事がひと段落したころ。
厳が、懐から採点表を取り出した。
アスカは、すかさず反応した。
「ちょっと! まさか今から採点する気!?」
「いや……」
厳は、採点表を開きかけた手を止めた。
目の前には、食べかけのおにぎり。
空になったスープの器。
チャイを飲みながら談笑する住民たち。
そして、満足そうにスムージーを飲む弟。
厳は、しばらくその光景を眺めていた。
それから、採点表をそっとしまった。
「今日の食事は、何点と書けばいいのかわからんな」
アスカは、目を丸くした。
「ゲンさんが……採点表をしまった……?」
「だから、驚きすぎだ!」
「いやいやいや! あの『マイナス二十点!』のゲンさんが!?」
「いつまでその話をするつもりだ!」
ノエルが、笑いをこらえながら言った。
「兄さん。今日は、点数をつけなくてもいいんじゃないですか」
「……そうだな」
厳は、少し照れくさそうに視線をそらした。
「点数は、必要なときに使えばいい。それが、すべてではないということだ」
ロズマリンさんは、紫色の扇子をゆっくりと広げた。
「よい学びですね。食事は、身体を支えるもの。けれど、それだけではありません。味わう喜びも、誰かと過ごす時間も、そこにあってよいのです」
アスカは、豆乳スパイスチャイのカップを持ち上げた。
「そうそう。私なんて、料理の手間は省きたいし、片付けも面倒。でも、おいしいものは食べたい!」
「アスカさんらしいですね」
「何よ、ノエル。悪い?」
「いいえ。むしろ、合理的だと思います」
「……あら?」
アスカは、少しだけ得意げになった。
「やっとわかった? そうなのよ。私は面倒なことを省いて、そのぶん、おいしいものを楽しみたいの!」
「はい。僕も、自分に合った方法を選びながら、食事を楽しみたいと思います」
「うん。それでいいの!」
アスカは、にっこり笑った。
料理好きにならなくてもいい。
毎回、手の込んだものを作らなくてもいい。
誰かと同じ食事をしなくてもいい。
自分の暮らしに合った方法で、自分の好きな味を楽しめばいいのだ。
## 五 おいしいから、うれしい。楽しいから、幸せ!
やがて、窓の外が暗くなった。
今年も、残すところあとわずか。
胃腸町の住民たちは、それぞれのカップや器を手に、思い思いの時間を過ごしていた。
ノエルは、豆乳スパイスチャイをもう一口飲んだ。
「……やっぱり、いいですね」
「気に入った?」
アスカが尋ねる。
「はい。スムージーも好きですが、こういう飲み物も、いいものですね」
「でしょ?」
「ただ、ガラムマサラの量は、もう少し調整してもよさそうです」
「出た! 結局、分析するんじゃないの!」
「すみません。つい」
二人は顔を見合わせ、笑った。
効率を大切にするノエルは、いなくなったわけではない。
採点をする厳も、いなくなったわけではない。
ただ、それぞれの考え方に、少しだけ余白が生まれたのだ。
ロズマリンさんは、扇子を閉じた。
「みなさん。今日、私たちが学んだことを、忘れないでくださいね」
住民たちが、彼女を見つめる。
「食事に、たった一つの正解を求めなくてもよいのです。効率よく用意することも、好きなものを選ぶことも、ゆっくり味わうことも。それぞれの暮らしの中に、それぞれの喜びがあります」
アスカは、カップを両手で包み込んだ。
生姜とスパイスの香りが、ふわりと漂う。
温かい。
おいしい。
そして、みんなと一緒にいるのが、楽しい。
それだけで、十分だった。
「ねえ、みんな!」
アスカは、明るい声で呼びかけた。
「食事は楽しくて、おいしいから、うれしいんです!」
住民たちが、笑顔でうなずいた。
「おいしいから、うれしい!」
「楽しいから、幸せ!」
その声が、胃腸町いっぱいに広がった。
そして、年越しの瞬間。
「いただきます!」
……いや、もう食べていた。
「ごちそうさまでした!」
……だから、もう食べ終わっている人もいた。
「どっちなのよ!」
アスカのツッコミに、みんなが笑った。
ロズマリンさんも、優雅に微笑む。
今年最後の夜。
胃腸町には、温かな香りと、笑い声が満ちていた。
効率も、点数も、便利さも。
あっていい。
けれど、それらに縛られて、自分の「おいしい」を忘れなくてもいい。
誰かと違っていてもいい。
手間を省いてもいい。
好きなものを、好きなように楽しんでいい。
それが、アスカの食卓。
そして、みんなの食卓だった。
……と、ここで物語は、めでたく幕を閉じるはずだった。
そのとき。
ブオオオオオオオオン!
静かな夜を切り裂く、聞き覚えのある音。
アスカの顔から、笑顔が消えた。
「……ノエル?」
ノエルは、カップを置いた。
「はい?」
「今、ブレンダーの音がしなかった?」
「……気のせいでは?」
ブオオオオオオオオン!
「気のせいじゃないわよ!」
アスカは、窓の外へ向かって叫んだ。
「ノエルーーー! 大晦日くらい、静かに飲みなさーーーい!」
「すみませーーーん!」
ノエルの謝罪が、冬の夜空に響き渡る。
厳は額を押さえ、ロズマリンさんは扇子で口元を隠して笑った。
こうして、胃腸町の一年は、最後までにぎやかに過ぎていったのである。
そして新しい年もまた。
おいしいものと、笑い声と、少しばかりの騒動とともに、始まるのだった。




